●「どう、元気?」
僕は、どんな騒音のなかでも集中できるという特技?を持っている。これは、僕の大学生時代に巷で流行ったジャズ喫茶のお陰かもしれない。狭い喫茶店、大音響で鳴り響くジャズ、そんな中で読書をしたり昼寝をしたりしたものだ。ジャズが好きだから、ではなく、そんな雰囲気がただ好きだったのだろう。
それが習い性となったのか、わが家では、そしてわが書斎でも、テレビはつけっ放しである。集中すれば他の物音はいっさい聞こえないし、その一方で、耳や目のほうはニュース、それも臨時ニュースを聞き逃すまいと常時スタンバイ状態だ。三島由紀夫のように、『椿事』を待ち望んでいるのかもしれない。
それはさて置き、実はとんでもなく些細なことながら、テレビで目にするたびに腹立たしく思うことがある。それは、特にニュース番組などで顕著なのだが、終了前にアナウンサーら出演者全員が頭を下げることである。向こうは礼を尽くしているつもりだろうが、僕は馬鹿にされたような気がしてならない。
見たくもない彼らの頭頂部を視聴者に見せ付けて、どこが礼儀なのか。日本人の礼儀だ、文句があるか、という反論も理解できるし、僕自身、どうしてこうも腹立たしいのかよくわからない。強いて理由を探せば、どこか卑屈っぽく見えること。それから目線を外してしまうことにあるのかもしれない。
日本にはそれこそ、目礼という立派な所作があるではないか。相手を見ながらゆっくり頭を下げる。それで十分ではないか。頭頂部を見せるお辞儀はデパートなどの過剰包装を想わせる。つまりそれは無駄であり、心の籠もっていない所作であり、だからこそ、僕は馬鹿にされたように感じるのだろう。
考えてみれば、無駄な行為、心の籠もっていない行為の裏側にあるのは「計算」であろう。たとえば、人の誕生日や祝祭日にやたらと敏感なタイプがいる。誕生日などには必ずカードか贈り物が届く。当人はそれで義理を果たしたと「計算」し、自分は心優しい気遣いのできる人間だと満足しているのだろう。
ところが僕の知る限りでは、そういう人間は電話でひと言、「どう、元気?」という日頃のさり気ない声掛けとは縁がないのだ。彼らには、相手が本当に困ったときに損得を度外視して寄り添ってあげるという気持ちが、たぶん、ない。だからこそ、贈り物で済まそうとする。僕はこういう人間が苦手である。
2018年12月18、19日 ツイッター投稿
山本光伸ツイッター @yamamoto_mitsu
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