札幌の出版社 柏艪舎(はくろしゃ)

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今年の一月、僕の敬愛する西部邁が多摩川ヘリで自殺した。人それぞれに生き方がある以上、死に方があるのも当然で、自殺したのはまあ仕方のないことだと思う。自殺した人間は成仏しないとか言われるが、それは、人間に勝手な真似をさせては沽券に関わるという神様の言い分だろう。

 

僕に関心があるのは、西部の自殺を助けたという若い二人の人間のことだ。両手が不自由だった西部に、自分の身体を立ち木に縛り付けることはできなかっただろうという理由から、二人は自殺ほう助罪で逮捕されたのである。こういう場合、僕はすぐに自分ならばどうしただろうと考える。

 

自殺後、家族や周りの人々にどのような迷惑をかけるかということは別問題だ。僕に関心があるのは自殺に至るまでの経緯であって、自殺の是非をいくらあげつらっても意味はないと思う。ある意味、仕方のないことなのだから。

 

ただ、自殺することをどうしてあんなにも頻繁に口にしたのか。僕にとって、それは最も西部らしくないところなのだ。三島は一切口にしなかった。僕も当然、三島の態度をよしとする。そしてまた、どうしてあの二人に自首を勧めなかったのか。どうして二人にそれだけの覚悟を求めなかったのか。

 

それこそが、上に立つ人間の務めだろう。覚悟のない人間を巻き込んではならない。僕はそう思う。そしてまた二人に問いたい。西部の指示の有無に拘わらず、どうしてすぐに警察に、それも堂々と自首しなかったのか。西部の自殺を助けたことが、何か後ろめたい行為であったのか。

 

僕は何も、井上日召の「一人一殺説」を信奉するわけではないが、そこにある種の美学があることは認めざるを得ない。昨今の、宗教の名の下に、あたかも殺人を、大量殺戮を楽しんでいるかのような偏執病的テロリストとは訳が違うのだ。人を殺めたなら、その責任を自ら取る。当然のことだろう。

 

自殺幇助にもやむを得ない場合があると僕は思う。その際、法律などはクソ食らえなのだ。それが本当に慈悲の行為と思うならば、自己の責任においてやるべきだろう。あの二人には、本当に正々堂々と自首し、自分の思うところを開陳してもらいたかった。そう、稀有の思想家、西部邁の名誉のためにも。

 

2018122122日 ツイッター投稿

 

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●「どう、元気?」

 

僕は、どんな騒音のなかでも集中できるという特技?を持っている。これは、僕の大学生時代に巷で流行ったジャズ喫茶のお陰かもしれない。狭い喫茶店、大音響で鳴り響くジャズ、そんな中で読書をしたり昼寝をしたりしたものだ。ジャズが好きだから、ではなく、そんな雰囲気がただ好きだったのだろう。

 

それが習い性となったのか、わが家では、そしてわが書斎でも、テレビはつけっ放しである。集中すれば他の物音はいっさい聞こえないし、その一方で、耳や目のほうはニュース、それも臨時ニュースを聞き逃すまいと常時スタンバイ状態だ。三島由紀夫のように、『椿事』を待ち望んでいるのかもしれない。

 

それはさて置き、実はとんでもなく些細なことながら、テレビで目にするたびに腹立たしく思うことがある。それは、特にニュース番組などで顕著なのだが、終了前にアナウンサーら出演者全員が頭を下げることである。向こうは礼を尽くしているつもりだろうが、僕は馬鹿にされたような気がしてならない。

 

見たくもない彼らの頭頂部を視聴者に見せ付けて、どこが礼儀なのか。日本人の礼儀だ、文句があるか、という反論も理解できるし、僕自身、どうしてこうも腹立たしいのかよくわからない。強いて理由を探せば、どこか卑屈っぽく見えること。それから目線を外してしまうことにあるのかもしれない。

 

日本にはそれこそ、目礼という立派な所作があるではないか。相手を見ながらゆっくり頭を下げる。それで十分ではないか。頭頂部を見せるお辞儀はデパートなどの過剰包装を想わせる。つまりそれは無駄であり、心の籠もっていない所作であり、だからこそ、僕は馬鹿にされたように感じるのだろう。

 

考えてみれば、無駄な行為、心の籠もっていない行為の裏側にあるのは「計算」であろう。たとえば、人の誕生日や祝祭日にやたらと敏感なタイプがいる。誕生日などには必ずカードか贈り物が届く。当人はそれで義理を果たしたと「計算」し、自分は心優しい気遣いのできる人間だと満足しているのだろう。

 

ところが僕の知る限りでは、そういう人間は電話でひと言、「どう、元気?」という日頃のさり気ない声掛けとは縁がないのだ。彼らには、相手が本当に困ったときに損得を度外視して寄り添ってあげるという気持ちが、たぶん、ない。だからこそ、贈り物で済まそうとする。僕はこういう人間が苦手である。

 

2018121819日 ツイッター投稿

 

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●犬のウンチと正義感

 

日曜日など、僕はポテを連れて一日に何度も散歩に出る。もちろんポテに用便をさせるためだ。僕の手には小さなスコップが握られている。そしてボテのウンチを草むら、つまり人が通らない場所へ放って歩く。分解される有機物は自然に帰してやるのが一番だと思っている。

 

さて、犬の飼い主には三種類の散歩のさせ方があるようだ。ビニール袋などに拾って持ち帰る方、犬の勝手にさせる方、そして僕のようなタイプ。大半が最初のやり方で、今頃滅多にないのが二番目、そして三番目は少数派だろう。二番目は論外としても、僕が三番目に固執するのには訳がある。

 

何と言っても、一番目の方は正義感に満ち溢れている。それはそうだろう、どこからも文句の出る気遣いはないのだから。三番目の僕は、なんとなく後ろめたい。それでも僕はやはり三番目がいい。なぜか? 僕は散歩中、他の犬のウンチがあれば必ず人目につかない草むらに放ることにしている。

 

ところが、一番目の方がそのようなことをするのを見たことがない。そこいらに落ちているウンチを目にすると、不機嫌そうに眉をひそめて通りすぎるだけだ。これはつまり、後ろめたさを感じているかどうかの差だろうと思っている。正義感に満ち溢れている方には、この後ろめたさが欠けているのだ。

 

この世の中で僕が嫌うことの一つは、ゴミの日に規則を守らない不届き者はいないかと物陰から見張っているようなつまらない正義派だ。こういう連中こそが、世の中をぎすぎすとした住みにくいものにしているのだ。人は、自らの後ろめたさを意識すればもっと優しくなれる。そういう人間に僕はなりたい!

 

20181217日ツイッター投稿

 

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