こんばんは、SALAです
ブログ御訪問&読んで頂き、ありがとうございます
昨日、空さんが素敵な記事を上げられていました
誰もが昔は、諦めない生き物だったというお話を、姪っ子さんのひたむきさを愛に溢れた視点で書かれていて、忘れていた大事な宝物を手にしたような心地になりました
子供の頃は確かに、夢中で楽しみながら、ハードルをハードルとも思わずに、気負いもせず、
挑戦=遊ぶ(夢中、楽しい)でした
でも、気がつくと、成長する過程でハードルはそのままハードルになり、楽しむどころか、跳び越えなければならないのだと、必死
転べば痛いし、跳び越えられなければ容赦なく比較の上の烙印が押されます
周囲からも、その烙印の上の評価、それがもたらすであろう将来性の低下を指摘され、怒られ、やり遂げなければならないという義務感と、やらなかったら起こるであろうマイナスの数々を植え付けられ、一層追い立てられる様になります
時代もそういう時代だったのだと思います
ハードルは跳ぶのが前提なので、跳ばないという選択は勇気を要する上、絶対納得はされない説明を求められます
だから、大抵の人は、跳べるか跳べないかでなく、とにかく跳ぶ事にしたと思います
そこに、自分が跳びたいか跳びたくないかは全く反映されず、怖いから跳びたくないなんて、言語道断
決断できない内に、スタートラインに立っていて、考えないまま走り出していた感じ
そして、いつしか、跳ばないで済む理由を考える様になりました
自分でなく、周りが納得する理由
跳んでも下位なら怒られ、跳ばなくても怒られ、認められるのは跳んで尚且つ上位だった時だけ。
なら、苦手だと自覚してるハードルならはじめから跳ばない方がいい
せめて、自分が挑みたいハードルなのか、そうでないのかが分かっていたなら、自分で選択したと、自覚し、認識する事が出来ましたが、その前段階
言い訳するいくつもの自分が出来上がり、自分が本当はどうしたいのか自分で分からなくなり、今が分からないからその先は更に分からなくなり、「自分は挑みたいのか?」以前の状態になってしまいます
それがスピリチュアルを知る前の私です
スピリチュアルを知り、学び始め、自分が何をしたいのか、何が好きなのか、何に喜びを感じているのか、心の声が聞こえる様になり始め、挑みたいハードルが出来、挑む事が楽しむ事と同じなんだという事を、感じ始められるようになってきました
跳べと言われたから、義務と使命感で跳ぶのでなく、
自分が挑みたいハードルだから、跳べるようになる過程を楽しみながら、挑み続ける。
それが、好きな事だから継続になる
そんな事が、ようやく分かる様になってきました
勿論、それでも、怖い!!と怯む事は多々あります
でも、今は、繋がってくれている周りの方々が、
「大丈夫!」「みんないるよ」「楽しもう」と、愛の心で支えて、その大事な事を思い出させてくれるんです
(昨日も、sanaさんに、その大事な事を思い出させてもらい、勇気をもらいましたいつも、「楽しもうね」って言ってくれるsanaさんsanaさんがそう言ってくれるタイミングは、不思議と、私が楽しむ余裕を失いかけている時sanaさんの愛に感謝です)
怖いはGOは、自分でしなければならない
でも、そこに、応援し合えて、愛の心で支え合える人達がいてくれたなら、その「怖い」は半減すると言う事を、今私は、繋がってくれた方々から学ばせて頂いています
空さんの記事を読んで、友達と一緒に楽しんで様々な事に挑戦して遊んだ頃と、今がシンクロして、
忘れていた宝物を再び抱きしめた気持ちになりました
空さん、ありがとうございます
日々愛と光、癒しや勇気、一人では決して得られなかったものに気づかせてくれる、繋がって下さっている全ての方々に、本当に感謝です
ありがとうございます
長くなりましたが、今日もここまで読んで頂き、本当にありがとうございます