よい馬を見つけよう

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それが伯楽。

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Twitterの方で怖い話が流行っていたり
テレビ朝日のぶっちゃけ寺?で三重の伊勢神宮だったり猿田彦神社が取り上げられていたようなので(数日前にチラ見した程度なので知りませんが)
ひとつ、些細な不思議な出来事でも。


私が20歳くらいの時でしょうか。
まだ大学生だった頃。

 


家族で夏の熊野旅行に行きました。

暑い中熊野古道を通って熊野三山を巡りました。
そして伊賀の森深いところに宿をとり、次の日には、伊勢に向かいました。


伊賀道中、森が深く生い茂る細い砂利道をわざわざ選んだ我が家族。

対向車が来たらどっちかが森の底にダイブしないと通れないような狭さだったのですが、遭遇しなかったのは幸い。


そんな中、ふと、森の中のひとつの木に目が留まる。

細い枝の先に鳥が背筋を伸ばして悠然と立っているのです。

その鳥は縦に細長く、孔雀の大きな尾羽がないような姿でした。

わかりやすく言うと、平等院鳳凰堂の鳳凰像のようなものがいました。

 

動かないけど、恐らく生きてる。

作り物かと思ったけど、3mを超す木の枝の先っぽなんかに誰も遊びでくくりつけたりなんてしないだろう。

しかし、孔雀ほどの体躯を持っているのにも関わらず、細い枝に立ってもたわみも折れもしないのはどういうことか。

あの不可解な存在を探るべく、家族にあの鳥は何?と問いました。

 

どこ?わかんない見えない、と全員から返ってきました。

 

あんなに悠然と立ってるのにわからないとは・・・・・・。

まあそんなことだろうな、そんな出会いもあるよね、と思いながら過ぎ去りました。

 

 

今思い出しても、あれは本当にいるものだったのか

そもそも私の目の錯覚なのかはわかりません。

 

後者という意見が普通ですが、

前者の方が体験としては面白いし、なによりずっと覚えていられるでしょう?

 

伊賀の森には、私にしか見えない鳥がいたんです。

 

 

 

さて、そうこうして伊勢に着きました。

 

流石伊勢神宮。

真夏でも人の多いこと多いこと。

 

最初から伊勢神宮の人波に揉まれるのは躊躇われたので、先に猿田彦神社に詣でました。

 

 

猿田彦神社は普通にお参りしました。

 

と、そこでどこかに続く細い道を発見。

 

進む。

 

たくさんの青々とした菖蒲のある大きめな池の前に出ました。

季節になるとそれは見事な光景だと、立て看板にありました。

 

 

こんなところにひっそり池があるんだなと思って左を見ると、

これまたひっそりと神社がひとつ。

 

「この神社に御用がある方は猿田彦神社まで」

というような立札があったので本当に小さいところなんでしょう。

 

これも縁かと思い、手を合わせ、目を瞑りました。

 

すると、その瞬間、強い光がその神社から発せられたようだったのです。

 

一瞬の強い光に、はて、なんぞやと

もう一度手を合わせるも今度はなにも起こらず。

 

たしかにまばゆい程の光を受けたと思ったのだけど、

同じような経験をしたという方は今まで聞いたことがなく。

 

 

だからといって特になにか影響があったわけではないので、

錯覚だったかもだけど面白い体験をしたなぁとせめて自分の中で覚えておくようにしているのです。

 

強いて言うなら、

この頃くらいから曇り~晴れ女っぽくなったかな、というところです。

 

 

 

 

 



 

見てください、このすごく勉強してる感じ!

 

……勉強してたんだよ!!!

 

古文書の文字の中でも私が特に嫌いとしている「地名」と「人名」。

 

これを解読してたわけですね。

 

 

もう来週で終わりですが、

大学の講座に少しお邪魔させていただいておりまして

大学時代にやっていた古文書の解読をまたやっている次第です。

 

それのお勉強中だったというわけで。

最近は仕事から帰るとすぐにオストゥンにダイブしてしまうわ、嫌いで苦手な地名人名なので手を付ける気にならないわで、なにもしていないという状況だったのですが、そろそろやらないと色々まずい、とせこせこやっていたわけです。

 

なんで嫌いなのかというと、

普通の文章と違って、前後の文脈から想定出来ないのと

読み方が曖昧すぎるからです。

 

例えば、「吉太郎」とあったら、読みが「きちたろう」か「よしたろう」のどっちかになるんです。

この場合、多分「きちたろう」のが圧倒的と思いますが、まあ昔の読みなんでね、しかも昔の常識は今と違いますのでもしかしたらこの地域は「よしたろう」と読ませる文化だったかもしれないとなるとどっちとも読めてしまうのです。

しかも、どっちの読みが正しいとかの追究をしようにも史料がないなんてザラ。

というか、そもそも名前なんてころころ変わるのでもはや名前とは?という状態。

そんな曖昧さが苦手なんですね。

 

そんな嫌いで苦手な地名人名を2週間にわたり課題として出されましてね。

もうね、ほんと気が進まない。

でもね、すごいんですよ。

辞書も引かず、嫌々眺めるんです。

そうするとただ眺めてるだけなのに、不思議とだんだんなんて書いてあるのか読めるんです。

昨日はこの字が全く読めなかったのに、今見てみたら読めるようになってるっていうのがたくさんあるんです。

 

なんだ、あなた朝倉さんっていうんですね。

下の名前は?

…なんとか四郎さん?

そのなんとかって何よ……あっ清さん?清四郎さんっていうのどうもです。

 

みたいな感じで眺めてるだけでも読めてくるんですよね。

いや、真面目に辞書引きなさいよって話なんですが。

いやでも、辞書引かずになんとなく読めるようになっていく感覚もなかなか面白いんですよ。

 

そんな感じで2週間ばかし地名人名と格闘したおかげか

どういう風に解読していくかのコツが掴めたようで苦手がちょっと克服出来たような気がします。

 

やっぱり古文書もなんだかんだ楽しいもんなんですよ。

 

あと1回で講座終わりだけど頑張ろうと思います。

 

テストまがいなことさせられるのでちょっと嫌なんですけどねっ

 

講座終わったら、

また友人とスカイプで古文書大会やろうと思います。

 

 

 

 

浮かんでは消える時間というものがあります。

 

あ、いえ、twitterにふいに浮上してぽぽっと呟いて消えるとかいうことではなくて。

たしかに私はそういう風な浮上の仕方ですけどもね。

いるけど呟かないROM専なだけだから。

 

……ということを言ってるのはないです。

 

なにが浮かんでは消えるか。

 

考え、です。

 

皆さんにもありますよね。

ふいに取り留めのないことを考えてしまう時間が。

それこそ、声を掛けられでもしたら

今なに考えてたんだっけ、とあっという間に消えてしまうような思考。

 

それはいつ?

君にはそれがいつ起こるのかな?

 

 

私はシャワーを頭からかぶってる時間。

 

あったかいなぁ……いいなあ……ぼーーーーーーーーーーーーっ

 

そのぼーーーーーーーーーーーーっの間に取り留めのない色んな考えや妄想が広がるんです。

 

もちろん泡沫のごとく消え去るのが常なので、

ここで大概妙案が浮かんで、よし、お風呂から出たら早速計画しようとか思っても

上がった途端現実に引き戻されて、あれ、さっきなにか考えてた気がするんだけどなんだったっけってことがよくある。

 

悔しい。

とても口惜しい。

 

何故私には心のノートがないのか。

 

仮にあるとしても、

ペンを握る動作をするだけで正気づいてあっという間に忘れること請け合いですが。

 

 

この時間、

私ならシャワーを頭で受け止めてる時間ですが、現実から逸脱した状態と言うんでしょうか。

なんというか、この時間に、ここ最近あった色んな出来事を整理している感じがあるから

記憶を整理するための夢の時間、とでもいうような状態。

白昼夢?

なんか違う。辞書は引かない。

でも似てるよね。

現実に戻るとなにかあった気がするけど思い出せない感じ。

妙案が浮かぶいい時間なだけにとても悔しい時間ですな。

 

ちなみにそんなわけで頭からシャワーかぶってる時間が長いので水道代めっちゃかかります。

湯船に浸かるのは違うんです。

私熱いの苦手だから長時間入れないんです。あとじっと出来ない。

湯船に浸かったならばタオルで空気閉じ込めててるてる坊主もどき作りたいし、桶で空気閉じ込めてズバシャッて暴発させたいもの。じっと出来ない。

何かしら刺激が欲しいようで、湯船にただ浸かってるのだとダメらしい。

シャワーはそれが刺激となるようで大人しくなるよう。

水道代気にしなくていいのだったらもう少し長く頭で受け止めていたいのですけどね。

 

人間、ぼーーっとしている時間も必要だとほんと思います。

このぼんやりとすぐに消えてしまうような時間に妙案というのはよく潜んでいると思うのです。

上手く捕まえられないからなかなか手を焼くのですけどね。

でもこの妙案、捕まえられたらもしかしたらイイモノかもしれません。