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カントの定言命法について自分なりにおさらい。
全ての始まりとしてカントが掲げるのは理性であるが、ここに必要なのは
神の概念、神が存在するということである。
かといって彼が言うにそれは説明できるようなものではなく
神とはその概念、つまり超越的なものとして存するのである。
その説明として時間と空間がアプリオリに備え付けられたものであるとし、
感性、これのみでは対象は知覚できないと、
というにも物体は単なる現象、言い換えれば物自体に過ぎず、
感性のみではそれが何を意味するか、何を意味として含むかがわからない。
ここで彼が必要としたのが悟性、言い換えれば主観的な意思である。
ここで面白いのは対象、すなはち客観的なものを悟性という主観的なもので捉えても
そこには客観性は生じないのでは…という疑問である。
これを解くために彼が打ち立てたのが定言命法である。
つまり意思の対象ではなく、というのもそこには主体、人間の感情、
それぞれによって快と不快で対象を捉えようとする違いが生じてしまうため
それを排他し、意思の単なる形式とみなすことでそこに客観性をもたせた。
定言命法が成り立つその要素として対象物が時間の中でcausalityにより結ばれているなど
幾つかの条件のもとに定言命法は証明される。

ニーチェが定言命法をクソだと見なした理由としては
やはりそれが人間の生き方をかなり制限するからであろう。
かといってカントの全てに反対したのではなく、まあ当時のキリスト教に対しても
カントと同様クソだと見なしたのだけれども。
要はニーチェの言うカント批判、キリスト批判は
神の名のもとに運命をそうあるものとして人に認識させてしまう
その態度、人生へのあり方である。

さてここでエッセイもとまり、明日はニーチェの批判の続きを書こうと思うが、(エッセイ内で)
どの文献をみても基本的にはニーチェのカント批判は
moralityにあると書いているんですよね、つまり日本語で言えば倫理性。
これがあまり自分の中でしっくりこない、というのも
もっとその考えが存在論にあてられてもいいような気がするからです。
文学や音楽、はたまた美学に影響を与えたのはわかる。
強いて言うなら頽廃からの新たな光、より人間味を帯びた
みたいなことが底から浮上するから。
ただ倫理に話をぶち込んでしまうのがあまりしっくりこない、
かといって他にどういう焦点が置けるかが僕の頭に上がってくるわけでもなく…
といった具合です。
ニーチェ自身、実際ZarathustraやらGay Scienceを読んだときに
かなり思ったのだが文学の才が桁違い、というか書き方が全般的にそういう傾向にあるのではないかと。
だからこそその真に人間に則した学問的な記述に幾分かの欠陥、
こんなことニーチェが聞くとそれこそぶっ飛ばされそうですが、笑
があるように思えます。
ひたすら書物読んで更に考えを深める努力をする以外の方法はなさそうですね、
道は長い、面白いんだけれども。笑

では湯を浴び、床に就くことにします。
ナダルの決勝戦良かったですね、マッチポイントのあのプレーは圧巻。