【コミュ障】という言葉がある。全くもって昔からそうだった。他人と接するのが百%無理というわけではないが(実際何十回も転職しているということはその分人と接してきてはいる)どうも不自然というかチグハグしてるというか…。


「ひとの挙動」がまず気になって仕方ない。それ以前に「一瞥」すらがダメだ。職場であろうがお店であろうが通りすがりであろうが相手が私をチラッと見る、その時の眼差しに打ちのめされる。わかりやすく優しい好意的な目なら良いのだが(今はそんなのはまず無いが)眼差しにほんの極僅かでも「不審や拒絶」の要素が感じられると「ひとからの評価が自分の評価」という中で育ってきた人間にはもう耐えられない。言いたいことも何も言えず、ただ「拒否されている、自分には何の価値も無い、存在してる意味も無い」というところに即座に辿り着く。


これはそういう風に考えて、どうのこうのではなく「条件反射」のレベルだ。寒かったら鳥肌が立つことを意識で止められるものではないように、記憶、昔の記憶が皮膚感覚で覚えている感じ配線のおかしい条件反射だ。


ここのところブログでもよく話してる「小さな頃の環境によって、それしか無いくらいに創り上げられた人格」。対世間の能力に著しく欠けている。怖ろしいほどに「自分自身が無い」ものだからとにかく自分以外に翻弄される。自分は一人なのに他者は何人いる?多ければ多いほど振り回されるわけだからその数は疲弊のたびに減っていく。外に出ると「他」に嫌でも出くわすから外に出なくなる→引きこもりの出来上がり
(自分のことです)


親のために自分の気持ちを押し殺し続けた子供時代、その結果「自分軸」というものが全く形成されないまま社会に出ることに。「社会に揉まれることで自分軸が出来ていくものだ」と言われてもあまりに基礎が無さすぎた。「他者からの評価」でしか自分を測る術を知らない。多くの他者、様々の他者、それに合わせる、常に見られている、オドオドする、挙動不審になる、それを変に思われてないかと勘繰る、他者が怖くなる…この状態で社会人として何回か働いてきたけど、ほぼ太刀打ち出来ずじまい。拗らせただけだった。


友人や恋人なんかもいなかったわけではないんだよ。すごく良い人達だったけど全部こちらから連絡を絶ってしまった。新しい自分を獲得する手段として「人生のリセット」を試みた度に。今思えばよくこんな馬鹿なことをしたものだと思う。何よりも「友達」とか「理解してくれる人」が人生には大切なのに。結局は自分で僅かな「居場所」さえも失くしてきた。


今現在も人との接点が稀にあった時に(リアルでもそうでなくても)ずっと自分の無い「他人軸」で生きてきてるからなのかチグハグな対応をしてしまう。敏感過ぎるからと相手の感情を誰よりも感じることができているつもりでも奇妙にズレていることが結構あったりする。これも「自分が無い」からだろうか。確かにセンサーは敏感なんだけど自分のものではなく使いこなせてない感じだ。


「自信を持て」
「自信とは自分を信じること」


そんなことは百も承知だけれど、ここまでそれが出来てないってことは本当に生まれてから長期にわたり「自分不在」だったんだろう。自分を出すと受け入れられなかった、受け入れてもらうために自分を失くした。無いままに生きてきたからこその現状で、そのまま半世紀か…


そういえば亡くなった父親の口癖が「親父のこと(自分)を愛したってくれよ」というものだった。愛して欲しいということは愛されてこなかったのだろう(存在を認められていない)。夫婦仲は悪かったし、小さい頃はとても貧乏で虐待も受けてたらしい。私とは比べ物にならないくらいの過酷な環境で育ってきている。皮肉なことにそれが、ね…


望んだわけではない負の連鎖だね。