もはや書いたことであろうが、何度も同じことを繰り返すのみである。

死を超えるとはどういう意味なのか。

それは第一に死ぬ恐怖や不安が一切消えるということであり、

死にゆく者という実感が消えることであり、死という概念すら消滅してしまうことを意味する。

 

なぜそのようなことが起こりえるのか。

 

それは人間の認識作用が汚染されているからである。

人は事物を認識するときに存在の実感を伴う。

この存在の実感が汚染である。

私が存在する、あなたが存在する。死が存在する。悟りが存在する。

それら全てが汚染された認識である。

 

存在の実感が消滅するというと人はすぐに非存在の実感をイメージする。

例えば、すべてを非存在として見てしまうのか!?と言う。

そうではない。

存在も非存在の認識、どちらも汚染されている。

それらの汚染を取り除いたときに本来の清浄な認識を取り戻す。

 

つまり、汚染された認識が消滅するということをもってして、死は完全に超越される。

一切の活動は認識の範疇の中にあるため、認識という根源を解決すれば一切に片が付く。

 

ではどうやって汚染された認識を消滅させるのか。

それはまずあらゆるものから遠ざかり離れ、心の静けさ、精神統一を養うこと。

そして死、苦という問題が生じうる原因を心身を戦場にひたすら探求、観察していくことである。

人は世俗的な関心のために何年も努力できたりする。

それは例えば仕事であったり、勉強であったり、スポーツであったりする。

本当にその分野を極めようと思えばそれのみに専念する。

昔の日本ではそれが剣道や座禅だったりしただろう。

彼らは常に世間の意見に引っ張られる。世間が推奨するものに専念し、

自分で何が本当に重要か考えることはない。