4月から6月にかけて約2ヵ月間にわたり実施しました気仙沼女子高校への義援金の募金活動により、皆様からお預かりした義援金の総額は、872,357円となりました。これに、白鵬女子高校の義援金を合わせ、計145万円を義援金としてお送りすることとなりました。
6月13日(月)、私たちは8時12分の新幹線で東京から気仙沼を目指しました。
11時に岩手県一ノ関駅に到着し、車で気仙沼女子高校へ向かいました。
現地に近付くにつれ見えてくる災害の爪痕。その恐怖を目の当たりにし、私たちは言葉を失いました。
そして、海に近い場所にすすんでいくと、テレビ等で見ていた、あの光景が広がっていたのです。
しかし、
テレビでは知り得ないニオイや塵、埃。
現地でしかわからない、被害の現状。
メディアでは絶対に伝えきれないもの。聞いただけでは理解しきれないものが、そこにはありました。
予定より早く現地へ到着したため、私たちは気仙沼女子高校近くの港に車を止め、しばらく周辺を見ていました。
私は、今日の交流会に際し、挨拶を述べることになっていました。
実は、あらかじめ原稿を用紙していました(あがり症なので…)。
しかし、実際に被災した現場を見ると、どんな言葉を使っても、それが適切でないように思えました。
気仙沼女子高校の皆さんに、どのような言葉を伝えればよいのか…。
私は海を見つめながら、そのような事を考えていました。
気仙沼女子高校は、気仙沼湾から近い坂の上にありました。
高校に着くと、玄関で理事長先生をはじめとした諸先生方が出迎えてくださいました。
交流会まで時間があったので、お話を伺う時間を設けていただきました。
災害当日の様子や、気仙沼女子高校の現状。部活動や教育活動を制限せざるを得ない現状に複雑な表情を浮かべながらも、限られた環境の中で最大限のことを行っていこうとする校長先生の生徒への愛情や、学校に対しての誇りを強く感じました。
気仙沼女子高校の皆さんは、体育館で我々を迎えてくれました。
現在全校生徒102名という人数ですが、礼をするときの姿勢や、人の話を聞く時の態度、挨拶など、とても礼儀正しいというのが第一印象です。
私はやはり、用意した原稿を手に、挨拶をしました。真剣なまなざしで私を見つめる彼女たちを目の前にすると、どんな思いも受け止めてくれるような気がしたのです。
学校の紹介、これまでの経緯、私自身の経験、生徒へのメッセージ…。私は、できるだけ生徒の目を見ながら話しました。
そのあと、生徒会長からも、気仙沼女子高校のみなさんにメッセージを述べました。
実際に現地に行って感じたことをそのまま伝えたい、と言っていた生徒会長からは「私たちが頑張ります。助けます。支えます」という力強い言葉を聞くことができました。
白鵬からは義援金だけではなく、応援メッセージを書いた横断幕も用意していました。
色は、海の色をイメージした青。
この震災で津波の被害が甚大であったことは事実です。
しかし、やはり気仙沼の美しい海は、我々が思い浮かべる気仙沼の象徴であり、人々の生活の中で慣れ親しんだ地元の誇りとして忘れないでほしいという思いがありました。
また、海は横浜にとっても大事な存在であり、この日をいつまでも忘れず、今後の交流につなげていきたい、という願いも込めたものです。
気仙沼女子高校のみなさんからは、全校生徒のメッセージが書かれた寄せ書きが送られました。
模造紙にはかわいいイラストが書かれ、、ハートのメッセージカードが貼られていました。私たちの為に時間を作り、とても丁寧に作ってくれた思わぬプレゼントに、私たちもとても感激しました。
交流会の最後は、記念撮影が行われました。
交流会が終わり、とある教室からベランダに出ることができると案内されました。
すると、そこは気仙沼湾を一望できる絶景スポット。
私が景色を眺めていると、教室がなにやら騒がしくなっていました。
教室に目を向けると、白鵬生を取り囲む気仙沼女子高校の生徒の姿がありました。私たち教員が不安に思っている間に、生徒は生徒同士で交流を深めていたのです。
自己紹介、制服の話、写真撮影。
そこでの会話は、まさに女子高生そのものでした。
私たちが帰る際にも、廊下ですれ違う時に話しかけてくれる生徒や、玄関でお見送りをしてくれる生徒。車に乗る瞬間まで別れを惜しみ、「また来るね」「神奈川に行くね」と言っていた生徒同士の会話が印象に残ります。
学校を後にした我々は、教頭先生と生徒会担当の先生に、気仙沼市街を案内していただきました。
私たちが知らなかった、目に見えるものだけでは無い被害や被災者の様子。
震災から3カ月経った今も知らなかったことがたくさんあることに、私は愕然としました。
私はそれまで宮城県に行ったことがありませんでした。
そのため、被災する前の気仙沼市を知りません。今では、被災前の活気ある気仙沼市を肌で感じることは、もうできないのです。
しかし、家屋があったと思われる場所に残されたままの家庭用品、店の看板や道路標識。それらを見ていると、確かにそこでは人々が日常を過ごし、気仙沼の海を眺めながら生活をしていたことがわかりました。
帰りの電車の中で、私は生徒会長に「どうだった?」と聞きました。すると、生徒会長は少し考えて「なにができるかは分からないけど…笑顔を届けたい」と言いました。生徒は生徒なりに、今日の出来事を考え、次にできることを考え始めていました。
今の日本の体制に対しては様々な意見がある事でしょう。
しかし、それでも現場は動いています。
老人ホームであれば高齢者が、学校であれば生徒が今も毎日生活をしていて、そこでは介護や教育を行う人がいます。
政治を批判し大きな力を求めるよりも、できることを出来る限りやっていく方が、復興への近道なのでは…とも思います。
それは、実際に被災していない私の浅はかな考えかもしれませんが…。
私たちにできることはかぎられているかもしれません。
しかし、立ち止まっていても何も始まりません。
出来ることから少しずつやっていくこと。
そして、それが「笑顔」につながっていくことを信じて、私たちは支援を続けていきます。






