「全く暇さえあれば降ってやがる」
 とホテルのラウンジの窓から降雪を眺めていた小島健太郎が、彼の前で畏まっている私と純ちゃんの上にゆっくりと視線を戻しながらポツリと呟いた。
 その呟きを、自分に話しかけでもされたと思ったのだろう、小島の身内になる事を認知されその興奮が醒めきっていなかった純ちゃんは、(はい)とも(へい)とも聞き取れるような上擦った返事をして、眩しいものでも見るような目付きで遠慮がちに小島を見ていた。
  小島は半年に一度は必ずこの街にやってきた。来ると一周間は滞在する。
 その小島の常宿がこのホテルで、街の中心からは少し離れてはいたが、市内を一望する事の出来る小高い山の中腹に在り、天皇や皇族の宿泊した事もある東北随一の伝統と格式を誇る由緒あるホテルだった。
 「ヤクザはスターだ」
 と言いきる小島は、その日はダークブラウンの三つ揃えのスーツに、同系色のシルクのドミニクのネクタイを少し緩めに締めていた。
 小柄ながら筋肉質で屈強な小島のボディにスーツはぴったりとフィットし、一見して舶来の上等な生地を、東京でも指折りのテーラーに仕立てさせたものだろう事が想像できた。
 小島のお洒落は本物で、生地の異なる同じ色で同じ形のスーツを何着も持っており、毎日同じスーツを着ているように見えても必ず取り替えていて、同じスーツを2日続けて身につけているという事はなかった。
 多少パーマのかかった髪がその精悍な顔によく似合っていて、小島にはいかにも高級ヤクザといった雰囲気があった。
「しばらくは部屋住って事になるから荷物なんざ少ねぇ方がいいが、しかしそのスケ(女)みてぇなペテン(頭)は何とかしなくちゃな。俺のヤサ(家)の近くに腕の良いガリヤ(床屋)があるから向こうに着いたら短くするんだな」
 と言って、(飛鳥山の蝮)の異名を持つ小島の本性を知る者なら、思わずゾオッと背筋の寒くなるような甘い甘い微笑を純ちゃんに投げたのだった。
 純ちゃんは長髪を注意された時こそ、一瞬不安気な表情を浮かべたものの、直ぐに神妙な表情に戻ると頻りに 恐縮していた。
 小島の信任が最も厚いと噂のある小島組理事長(若頭)の久米正司が、 巨体を揺さぶってフロントからやって来ると、
 「チェックアウトは済みました。 社長達はロビーでお待ちです」
 と小島に告げ、大きく膨らんだクロコダイルの財布を小島のセカンドバックの中に手際良く仕舞った。小島は軽く頷くと
 「それじゃ、帰るとするか、、、」
 と大きな伸びをし、ソファーから立ちあがった。
 久米が機敏に後ろに回り、膝までもある白の長いマフラーを小島の両肩からサラリと垂らし、その上からビキューナーのロングコートをフワリとかけた。
 純ちゃんの羨望に妬けた視線を知ってか知らずか、小島は 鷹揚に久米に身を任せていた。
 ホテルの正面玄関には、水分を含んだ重い雪が降りしきる中、濃紺のベントレーと白のベンツがエンジンをかけたまま横付けにされていて、マフラーから白い息を吐いていた。
 ベントレーの傍に、小島のボディガードの体格の良い若者達が直立不動の姿勢で立っており、小島が見送りの男女を従えて姿を見せると、すかさず一人が濃紺のゴルフ用の大きな傘を差しかけ、一人がタイミング良くベントレーの後部席のドアを開けた。
 雪に足を取られないようにか、慎重に小島が車に乗り込むのを見定めてから、一人が運転席のドアを開けて乗り込んだ。
 「失礼します。閉めます」
 と久米が慇懃な態度で小島に断り、絶妙のタイミングで後部席のドアを閉めると、男達はボケッと突っ立っている純ちゃんを促し、久米を取り囲むようにして後方のベンツまで走った。
 スキンヘッドで額に三日月疵のある大男が久米の肩の当りの雪を払いながら、器用に片手で久米の為にベンツの助手席のドアを開け、久米が乗り込んだのを見定めてから、眉墨を入れた凄みのある顔をした男がベンツの後部席のドアを開けて先に乗り込んだ。
 スキンヘッドの大男が、純ちゃんに先に乗るよう勧め、純ちやんが恐縮し尻込みしていると、
 「純、今日はまだ客だ、タモタモしてねぇで早く乗れ!」
 と助手席から、苛立った久米の声が飛んだ。
 ベントレーの後部席の窓ガラスがスルスルと開き、中から小島が顔を覗かせ、見送りに出て来たホテルの支配人や和食の職人達に軽く会釈をする。 
 「道中お気をつけて、、、」
 との声に小さく頭を下げた後、小島は私を手招きし、
 「じゃなマスター、来月はジャンプ(手形の決済更新)はダメだぜ。」
 と呟くように私に言い、耳の辺りで片手を小さく振った。


 ベントレーのエンジン音が変わった。
 私は久米が東京で仕切っている競馬のノミ屋を利用していたのだけれども、負けが込んで支払いが滞り、別れた妻の華子に頼み込んで華子の会社の手形を借り、その手形を月一割という高金利で小島に割って貰って久米に支払っていたものの、手形を決済出来る予定がなく、小島に差し替えの手形と金利だけを支払ってジャンプして貰っていたのだった。
 久米の親分である小島組組長小島健太郎は、長老支配の関東のやくざ組織の中で48歳の若さで関東の雄、明石一家の執行部入りをしている今売り出し中の若手組長だった。 
 純ちゃんはベンツの後部席で、顔面凶器のような甚だ人相の良くないやくざ者二人に挟まれて、不安気な表情で私を見ていたが、いょいょベンツも動き出し、見送りに来ていた人達が一斉に深々と頭を下げるのを目にすると、その横顔に純ちゃん自慢の愁いを帯びた表情が浮かんだのだった。
 ヤクザ社会は縄張り意識が強い。それは国家がそれぞれの領土所有権を主張し、国連で認められた権利を堅持しているのと酷似している。
 国連が大国の動向を忖度しながら決議されているように、ヤクザ社会の抗争や縄張り問題も、仲裁に入った勢力の有る組織の思惑が色濃く反映された取り決めがなされるようだが、ヤクザ社会は獣の世界、弱肉強食は自然淘汰の法則、弱い事は悪なのだ。
 国家も同じだ。国民の命と財産を護るのが、国の最も重要な要諦だが、日本は戦闘力を持たない為に、領土である北方領土や竹島を武力占有され実行支配されている。また、尖閣諸島は度々侵犯され、600人以上と云われている北朝鮮に拉致された国民は、身代金を払わない限り返してはもらえない。


 用心棒料を払ってアメリカを雇っているからなんとか国体を保ってはいるが、用心棒代が払得なくなったり、アメリカが諸般の事情でアジアから手を引く事になればどうなるか。 
  民主主義の名のもとに、国の防衛を外国に委ね、獅子身中の虫を飼い、スパイ防止法案一つ成立させる事の出来ない国家が、独立国家で有る訳がない。
 日本は緩かな滅亡への道を選択しているが、裏社会は熾烈だ。 
 東北地方の的屋(露天商)の老舗が、一致団結をし縄張りを死守する事を堅く約束し合っていたにも拘わらず、次々と関西や関東の有力なヤクザ組織に吸収されたり配下になっていくのは、大組織にすり寄り、彼等の進出に協力をする地元民がいたり、獅子身中の虫の組員を抱えていたからだろうと私は思っている。
 小島達の出立つを見送りに来ている集団の中には、若く美しい女達も幾人か混じってはいたが、ほとんどが小島達一行が贔屓にしているグラブやバーの女達だった。
 寝物語に小島や久米の耳に、この街のあらゆる情報を流し込んでいる彼等のこの街の愛人達は、決して人前にその関係を晒すような真似はしなかった。
 同じように、大企業の支店長や工場長、中小企業の経営者達や市議会議員なども、前日か早朝のうちに手土産をもって小島を訪れ挨拶を済ませていた。
 それらの人達が鉢合わせをしないように、時間の調整をしていたのも久米だった。
 その中には小島達に毒を呑まされた数人の刑事や新聞記者がいた事も私は知っていたが、世の中はそういうものだと思う事が出来るほどに私は成長していた。
 見送りに顔を並み潰したかの表情で小島を見送っていたが、その中の三人は地元の分家名乗りを許された親分と呼ばれているヤクザ者で、他はそのそれぞれの配下のようだった。小島から金を借りていて、久米から見送りに来るように連絡され不承不承集まっていたのだろう。収入源が安定していないヤクザ者に、返済の期日までにそうそう大金が用意出来る筈がない。
 そもそもそんな大金を用意出来るぐらいなら、命のやり取りをする可能性のある外部組織のヤクザなどに大金を借りたりはしない筈だ。
 「親方、うちの親分に頼み事をする時だけ押し掛けるんじやなく、見送りぐらい顔だしておいたほうがいいんじゃねぇんですか?」
 とでも忠告されていたのではないかと、私は思うのだ。 
 小島はロビーでそれらのヤクザ者と顔を合わせた時、作り笑いを浮かべ軽く頭を下げて短く礼を言ったが、その後は全くの無視、彼等には一瞥さえくれなかった。
 しかし彼等の硬い表情も、久米の車が私達の前をゆっくりと通り過ぎる時、車の窓硝子を下ろした久米が、彼等に向かって丁重に頭を下げたのを目にし一瞬にして崩れた。 
 深々と頭を下げて久米に返礼する親分や、子供のように手を振る親分もいるのを見て、田舎ヤクザとはなんと単純で素朴な男達なのだろうとその時私は思ったものだった。
 この地方のヤクザ者達は、刺青を入れたり指を欠損したりはしてはいても、タカマチ(縁日)に店を出店し、女や子供を相手に商いをする的屋(テキヤ)と呼ばれる露店商で、博徒とは根本的に違うのかも知れないとも私は思った。
 東北地方に関東や関西の有力暴力組織が進出を企てているとの噂がたった時、東北地方の組織は、
 代紋違いの兄弟分を持たない。
 他組織の人間から借金をしない。
 挑発には乗らない。
 など危機感をもって組織の引き締めを図っていたようだが、長く(的屋王国)の平和に胡座を掻いてきた男達に危機意識はなく、刑務所などで巨大組織の組員達と安易に代紋違いの縁を結んでしまうのだ。
 中国人や韓国人と安易に商取り引きをする、お花畑の日本人と似たものがある。 


 中国と日本とでは、互いの国内情勢も思想も違う。互いの立場を理解してからでないとトラブルになる。
 ヤクザ社会も同じだ。
 力が正義の業界だから一家や一門が違えばそれぞれ思惑も違ってくるし、地方都市と大都市では経済格差も大きく、組員の数も違うのだ。
 組員の数が違うと、年に一、二度あるかないかの組員の出所祝いに参列して貰ったが為に、一週間に一度ぐらいの割合で義理掛けに参列しなくてはならなくなるのだ。
 組員の命や財産を守る力がなければ、力のある組織の配下になり護ってもらうしかない。
 それは国家もヤクザ組織も同じだ。
 中国は朝鮮半島の二国を使って、日本の政界や財界やマスコミに侵食し、アメリカの力が弱くなった時に朝鮮半島と台湾と日本を自治区にする積りだろうし、第三次世界対戦は中国に因って引き起こされるだろうと私は思っている。
 日本列島も、戦国時代の昔からそうした覇権争いを繰り返してきて一つの国家になった。
 今は地球規模の覇権争いの真っ只中にあると云う事だと、私は思っている。
 民族が移住や滅亡を繰り返しても、土地はいつの場合もそこにあるが、この列島に何百年か後にも日本と云う国家が存在し、日本人が住んでいるとは断言出来ない。
 小島に金を借りている親分達が、近い将来小島の舎弟ではなく親子ほども歳の離れた若い久米の舎弟になる事が予測できる出来事だった。
 毎回の小島達の出立セレモニーが無事に終わり、私は手形が不渡りにならずに済んだ事に安堵しながらも、純ちやんへの後ろめたさに少しだけ胸が痛んだものだった。






 純ちゃんは、北上川に架かる橋の袂に在る私の店で、小島と知り合った。
 橋渡ししたのは私だ。
 私の店は(ナイトイン盛岡)という名の、サパークラブとスナックを足してレストランとディスコをまぜ合わせ歌声喫茶をオマケにつけたといったような、店名通りに非常にダサク、それはもう甚だしく落ち着きの無い店だったのだが、朝迄営業している事と盛岡駅の近くに在った事で店はそこそこ繁盛していた。
 もっとも私は、一日の店の売上げよりも競馬に投じる金額の方が多く、本命も買えば中穴も大穴も買うという優柔不断な性格丸出しの博打好き。
 しかも1レースから12レース迄全部買うのだから、幾つかのレースが的中したところでノミ屋に手数料をさっ引かれれば幾らの儲けにもならない。
 その日荒れたレースがなかったりすれば、的中馬券があったとしても(ガミ)、何日分かの店の売上げはすっ飛んでしまうのだ。
 それなら競馬など止めればいいようなものだが、それがそうは行かないのがギヤンブルの魔力というもので、虚言癖や盗み癖やアルコール中毒同じょうに、ギヤンブル好きも死ぬ迄治まらない不治の病なのだろう。
 月曜日から金曜日迄睡眠時間もろくに取らず馬車馬のように働いているのは、土日に競馬をやる為で、競馬が出来無いなどと云う事になれば私は発狂してしまう事だろう。
 煩わしい事の全てを忘れる事が出来るのは、ギヤンブルに熱中している時だけなのだ。
 私はこの地方では老舗だった隣の県の海産物問屋(陸前屋)の跡取りで、元妻の華子はこの県選出の国会議員の娘だった。 
 華子の上の兄はこの県の県会議員で議長をしており、下の兄は医師になり県を代表する大病院の院長の婿養子に入り、病院の事務長をしていた。
 華子の実家はこの地方の山林王でも有り、林業や造園業の他、建築会社や建設会社や不動産業など手広く営んでいた。
 その上華子はどのような場所にいても周囲の視線を集めてしまうほどスタイル抜群の美人で、東京の一流女子大を出ていて花婿候補は目白押し、そのせいかプライドが高く気が強かったが、綺麗な標準語を使い服装のセンスは際立っていた。
 別れた女房の容姿を自慢しているようでは、別れ方を自白しているようなものだが、早い話愛想を尽かされ逃げられたのだ。
 大学を出てからの華子は父親の秘書をやっていたそうだが、私と知り合った頃は父親に拘束されるのを嫌って東京六本木でブティックを経営していた。
 最初の彼女との出会いはラスベガスだった。私が一人でギヤンブル旅行を楽しんでいた時で、その日華子は女友達三人とアメリカ旅行の途中だった。
 私達は日本に帰国後、直ぐに再会、そして結ばれた。
 私が華子に夢中になったのだったが、私の品行の悪さは東北中に知れ渡っており、東北で飛ぶ鳥を落とす勢いの小島一族が私の評判を知らない訳はなかったのだけれども、それでもスンナリ私達の婚約が整ったのには、華子の父親小島正雄の思惑の他に、華子自身に問題があったのだが、その事を私が知ったのはずっと後の事である。
 私達の結婚式は、この地方でしばらくは語り草になったほど豪華なものだった。
 利口な華子は、私の父親が存命中は、結婚式の翌年に生まれた長女貴子の育児に家事にと、家の者が目をみはるような働きを見せていたものだった。
 しかし私の妹が近隣の市の同業者に嫁ぎ、父親が逝くと、家事も育児も私の母親と女中達に任せて、自身は(陸前屋)の経営に乗り出した。おとなしい母親では、古くからの使用人等に「陸前屋」を食い物にされかねないと云った思いからのようだったので、私は華子の行動を容認した。
 私も華子との結婚以来5年ほどは、父親から受け継いだ家業に真面目に取り組んでいたのだが、実際問題私自身も、主を主とも思わない役員や使用人の言動に心が波立った事は幾度もあったからだ。
 そんな時華子と二人で息抜きにと立ち寄った県都仙台の闇カジノハウスに、私がスッカリのめり込んでしまった事も華子の危機感を煽ったのだろうと愚かな私は思いこんでいたのだった。
 私がカジノハウスに入り浸り幾日も帰宅しなくなっても、自分が誘って私の虫を起こさせてしまったのだからと華子はあまり文句は言わなかった。
 私に一番原因があった事は間違いのないところだったが、弁解する訳ではないが元々華子はおとなしく人妻で納まっているような女ではなかったし、華子には私の道楽を許しておかなくてはならない事情があったのだ。
 華子は(陸前屋)の専務取締役に就任するや、僅かな不正や怠慢を理由に私の親戚の重役や、古くからの使用人達を片っ端から解雇し、自身の実家と縁の有る者を社員として雇い入れたのだった。
 その時の、居直る荒くれ漁師上がりの従業員達を相手に、一歩も退かずに巻き舌で啖呵をきる華子の姿を見て、頼もしいという思いはしても、華子の過去にまったく疑念を抱かなかったのだから私はお目出度い男と言える。
 当時の(越前屋)は、海産物問屋というよりも蒲鉾問屋として知られていたのだったが、華子が迎え入れた社員は、山林には詳しくても海産物にはまったく無知な男達だった。どんなに華子に才能があり、華子の父親に政治力があったとしても、素人の集団に海産物問屋などと云うものが経営出来る訳が無い。
 解雇した使用人達が次々と妹の嫁ぎ先である隣の市の海産物問屋に駆け込み、古くからの得意先である小売店までもが妹の嫁ぎ先に鞍替えするようになると、さすがに私もギヤンブルに現つを抜かしている訳にはいかなくなったのだった。
 しかし、その時には既に遅く、会社に現金は無く支払いばかりが溜まっていて、華子の勧めで私は(陸前屋)再建の為に、華子の実家から融資を受ける事になったのだった。
 華子の父親小島正雄代議士は吝嗇と色好みで有名な男だったが、インフラ設備の充実や企業誘致の多さでは他県の追従を許さない功績があり、選挙区では絶大な人気があった。
 与党の四大派閥のうちの一つの領袖であり、総裁選に幾度か出馬していたが、首相になれないのは朝鮮系企業や朝鮮系メデァとの黒い噂が跡を絶たず、アメリカ民主党にさえ嫌われているからだと言われていた。
 GHQの政策で、日本の財閥は解体され、日本人は公職から追放され、日本の政治家に、純粋な日本人は皆無だと云われていた。
小島正雄自体、中国系李家と北朝鮮系李家と日本人の混血の子孫だと噂があったが、そんな事を信じる日本人は存在しない。
何しろ小島一族といえば、江戸時代からの東北地方一帯の豪族、代々庄屋を継承してきた名家だからだ。
そしてまた、本家当主の小島正雄もまた、事有る度に自身が純粋な日本人で有る事を喧伝してきていたからだ。
 その義父小島正雄に私は散々に罵倒された上、代表権の無い会長職に退き、華子を代表権のある社長に据えるようにと指示されたのだった。
 私に依存はなかった。港町の暮らしも単調な仕事も私の性には合わなかったから、代表権を華子に譲り、義父から借りた金の一部を華子から借りて、再び仙台のホテルを根城にギヤンブル三昧の生活に戻ったのだったが、亭主元気で留守がいいと云った風で、華子は全く気にかけている様子はなかった。
 5年程の月日が流れ、私と華子は小島正雄大臣に議員会館に呼び出されたのだった。
 借金の返済方法についてで、小島大臣は総裁選に最後の出馬を決意し、その為表に出せない金が必要になったと云うのだ。
 「この国の政治家は全員が朝鮮人でね。彼等は総連とか民団とかパチンコ店から選挙資金が出るが、日本人の私は派閥を維持する為に選挙の度に金の工面をせねばならん。困ったもんだよこの国は、、儂が首相になれば、戦後の日本での二人目の日本人の首相と云う事になる。朝鮮人に乗っ取られて居る日本を、儂の手で日本人に取り戻してやるのだ。」
 と義父小島正雄は臆面もなく言いきったのだった。
 小島代議士は党三役や大蔵大臣や防衛大臣を歴任し、その時は法務大臣の要職にあった。
 彼は法務大臣に就任するや、溜まりに溜まっていた死刑執行命令書に矢継ぎ早にサインをし、あっというまに歴代の法務大臣の死刑の執行の数を塗り替えていた。
 死刑執行が行われる度に、人権派と云われている人達が拘置所や国会前で連日死刑反対のプラカードを掲げてデモ行進をし、新聞や雑誌が書き立てていた。
 この時小島正雄法務大臣はテレビ局のインタビューに対して、
 「私は法務大臣としての職務を、皆さん方の代表として行なっているだけです。死刑の判決というのは、警察官や検察官が証拠を裁判所に提出し、国家試験を合格した多くの法律の専門家達が長い年月をかけ公開の場で審議し検討して、この国の法律に照らして出された結論です。しかもその一審での判決に納得いかない者の為に、高裁、最高裁と事実を証明する機会を与えてのうえでの死刑確定です。さらに再審請求制度まで設け 公正慎重を期しています。私にも宗教的いや私情として、死刑執行命令書にサインするのには嫌悪感があります。しかし刑事訴訟法475条の2項には、死刑執行は判決確定から 6か月以内に法務大臣が命じなければ為らないとある。死刑執行は被害者の復讐権の代行だから、死刑確定後半年以上経っても執行命令書にサインしないというのは法務大臣として法律違反をしている事になる。法務大臣が法律を犯していては話にならない。私は法律に従い、死刑執行命令書にサインをしているのです。」
 と語っていた。
 華子は私の地元では気取っていると評判が悪く、陸前屋の経営は華子一人の空回りで順調にはいっていなかったようで、行き詰まる度に小島本家から借金をしていたようだった。
 負けん気の強い華子は、私には借金は毎月幾らか返済していてかなり減っていると報告していたのだったが、実際は最初借りた額の5倍以上に膨れ上がっていたのだ。
 私はその時、私自身の事は棚に上げ、(陸前屋)の営業不振の原因は、華子が古参の社員を解雇し身内の素人を雇い入れた事にあると口を滑らし、二人を激怒させてしまった。
 華子は(陸前屋)の代表取締役社長を辞任すると言って私に辞表を叩きつけ、中学生の貴子を連れて実家に戻り、私宛に華子の印鑑の押された離婚届けの用紙が送られて来たのだった。
 同時期に小島本家の顧問弁護士から、私と(陸前屋)に莫大な金額の請求書が届いた。
 私個人には、離婚の慰謝料と貴子の養育費の請求書も届いた。
 月に二度か三度の事だったが、私の定宿にしていた仙台の旅館にやって来て、発情期の獣の
牝のように私を求め、翌朝にはまるで何事も無かったかの涼しい表情で全ての支払い済ませ、私の望む現金を置いて帰っていた妻である。結婚以来華子以外の女を抱いた事もない私には離婚など思いもよらない事だった。ましては金銭に執着心がなく無頓着な華子に、慰謝料を請求されるなど信じられる事ではなかった。
 思い余った私は、会員制の闇カジノのオーナーの風間愼一を東京に訪ねる事にした。
 風間慎一は本部が東京赤坂にある武闘派ヤクザ組織(明石一家)の幹部で、巣鴨に事務所を構える風間組の組長だった。
 私は小島健太郎よりも前に、風間と関係があったのだ。
 風間は、東北地方に勢力をはるヤクザ組織の組長と兄弟分だとかで、この県以外の県の繁華街にも何店舗かの闇カジノを経営していて、風間夫妻と私達夫婦は一緒にマカオやラスベガスにギャンブル旅行をしたりした仲だった。 
 風間は東京の凄腕の弁護士を紹介してくれた。
 風間の紹介の村本弁護士は小島本家の弁護士宛に答弁書を書いてくれた上で、
 「これで3~4年は時間稼ぎは出来ますが、その間に会社を再建する自信がありますか?」
 と訊ねてきたのだった。
 (陸前屋)や私の借金を思い浮かべてみるまでもなく、社員や顧客の離散した会社の再建自体が不可能に思え、私は倒産の意思を伝えたのだった。 
 風間は当然のことで村本弁護士も小島健太郎の配下であり、私は小島健太郎の描いたシナリオ通りに動いていたのだったが、その頃は自身の意思で全てを選択しているのだと思い込んでいたのだった。
 ご先祖様や両親に申し訳ないと思わないのかと妹には泣かれたが、母親は自分達が育て方を間違ったのだから好きにすれば良いとあっさりしたものだった。
 その時に母親と妹は、(陸前屋)の役員を辞任した。
 私は母親が住んでいる土地と家だけは残してくれる事を条件に、風間に倒産整理を依頼し、私と会社の手形帳と実印と数十枚の印鑑証明書と白紙委任状を風間に預けたのだった。
 結果、母親の名義の土地と建物を除いた私名義の不動産や(陸前屋)名義の不動産に、風間や風間の関係者によってベタベタと抵当権が設定された。
 「倒産に会長のお母さんが 巻き込まれちゃ、屋敷を残してやった意味がねぇ。今のうちに売っ飛ばしてどこかにに引っ越したがいいですよ。市内の業者じゃ噂になっていけねぇ。俺がいい人紹介してあげますよ」
 と風間慎一に紹介されたのが、風間の兄貴分の小島健太郎だった。
 その時が小島健太郎との初対面だった。
 小島は一見おっとりとしているようで、動きは俊敏だった。
 私と仙台のホテルのラウンジで会ったその週末には、買手だといって東京銀座の有名な割烹料理店のオーナを連れて来た。
 話はトントン拍子に進み、翌週には行政書士だか司法書士だったか忘れたが、その人間の立ち会いで母は仮契約を結び、手付金を受け取った。その時に小島健太郎は私に、
 「お袋さんと一緒に住んでたのでは、債権者が黙っちやいねぇでしょうね。それにお袋さんに金が入れば、山羊みてぇに会長さんが札束をみな喰っちまって、お袋さんが引っ越す家も買えねぇ事になりかねねぇ。金の管理は妹さんにしてもらって、そうだお袋さんは妹さんの嫁ぎ先の近くにこじんまりとした家を買って住めばいい。味噌汁の冷めねぇ位の距離で俺が適当なのを見つけておきやすよ。」
 と言ったものだった。
 そしてその数日後には、隣の市の妹の嫁ぎ先の目と鼻の先に建て売りの二階だての一軒屋見つけてくると、東京の不動産屋に私と母親を案内させたのだった。
 住んでいた屋敷と比べるまでもなく、マッチ箱のような華奢な家だったが、母親はこれなら一人でも掃除が出来ると大層喜んで、あつさりと買い取ってしまった。
 それらの物件の売買で小島健太郎の懐に幾ら入ったかは分からないが、母親には相当な額が渡ったようで、口煩い妹が小島健太郎の事を悪く言わなくなった事をみると、酷い搾取はなかったようだ。
 妹はヤクザ者が大嫌いで心底から軽蔑していたが、その暴力性を酷く恐れてもいた。
 小島がわざわざ屋敷の土地や建物に自身が代表をしている会社の抵当権を設定し差し押さえてから売り渡したり、母親が移り住む事になる家も一旦小島の会社の名義にしてから母親の名義にするなどという方法を取った事で、妹は家や屋敷が騙し取られると知人の警察官に相談したりと大騒ぎをしていたのだったが、それが小島の言ったように税務対策と債権者対策になった事で、妹は一変して小島のファンになり、
 「ヤクザにもあげな人もおらっしやるだなぁ」
 と感心し、母親は
 「わたすはあん人の服装や身につけておらっしやる物を一目見て、こん人はわたす達真っ当に生きとるもんに害するような人やないと見抜いただよ」
 と小鼻を蠢めかしたものだったが、私は心の中で、
 (汗しないで人よりいい暮らしが出来るのは誰かを泣かしているからで、面倒みがよいのは何か魂胆があるか満腹だからだ、そのうち 牙を剥くさ。)
 とまるで他人事のように思っていたものだった。
 「屋敷やお袋さんの家に目をつける債権者がいたとしても、謄本に俺の名前がついている以上誰も関わっちやこねぇよ。」
 と小島が言っていた通り、(陸前屋)の倒産が噂され、母親が引っ越しても誰一人、屋敷や母親の家に押し掛けた債権者はいなかった。 
 ただ小島本家の弁護士から、(陸前屋)に融資した金を即刻弁済するようにとの催促があり、返済の無い場合は 業務上横領で私を提訴すると通告してきた。
 驚いた私が風間に連絡すると、風間は電話口で笑い出し、
 「会長さんオタオタしなさんな。 株主総会はまだ開けてないのだから、代取り( 代表取締役)
 はまだ華子さんのままでしょう?なんか言ってくれぱ、請求書は代取りに廻して下さいと言ってやればいい。華子さんに連絡して 一週間後に株主総会を開くので出席するように伝えて下せい。倒産の事は伝えなくていいです。華子さんは、議題は自身の代取り辞任と会長の代取り復帰だろうと思って 出席しねぇでしょう。 地場産業の担い手の(陸前屋)を、県も市も銀行も 漁業 組合も倒産させたりはしねぇと思っているでしょうからね」
 とまったく気にもかけて無いと云った様子だったのだが、夕方に小島から電話があり、
 「風間から聞いたよ。本家の寄る歳( 年寄り)も耄碌しちまったな。ソロソロ引導を渡してやるとするか、会長残念な事だがお宅の嫁さんの実家の小島本家もこれ迄だ。後は坂道を転がるように凋落の一途を辿る。奢れる平家久しからずって訳だ。」
 と言って、小島らしくもない妙に華やいだ声で電話を切ったのだった。
 その時私は、小島健太郎は小島本家と縁戚関係にあるのではないかとフト思ったのだった。
 同時に、小島にどれ程金や力があったとしても所詮はヤクザの親分、政権与党の次期総裁有力候補で、東北一帯に磐石の経済的基盤を築いている小島正雄法務大臣とは、財力一つとってみても星座と便座くらいの差はある筈で、ヤクザ相手にならいつでも国家権力を発動させる事が出来る立場にあり、小島健太郎が向こう見ずにも小島正雄大臣に 牙を剥けば、 食卓に接近したクソバエのようにひとつ叩きされて 一巻の終わりになるだろうとも思ったのだった。
 強きを挫き弱きを助ける事を支柱に置く任侠道を建前としているヤクザだが、国家権力にはカラッキシだらしなく、 古今東西ヤクザが国家権力に歯向かったなどと云う話を聞いた事がない。またあったとしても足腰立たなくなるまで叩きのめされている。 
 戦後暫くは日本人ヤクザが、力を無くした警察に代わって無法を働く朝鮮人達と闘い日本人を守っていたが、GHQの方針で日本の財閥が解体され、日本人が公職から追放されると、日本名を持つ朝鮮人がGHQによって権力を与えられ各界に送り込まれて頭角を現し、それらの勢力と結託した朝鮮人ギヤング集団が日本人ヤクザ組織を凌駕し、ヤクザ社会を乗っ取りヤクザ社会を拝金主義に変えてしまった。
 右翼と呼ばれる政治活動家達も、ヤクザ組織の傘下に入り、その構成員のほとんどが日本名を名乗る在日朝鮮人なのだ。
 小島健太郎や風間慎一は日本人のようだが、彼らの上部団体明石一家の明石雄一郎総長は帰化朝鮮人だという噂だ。
 ヤクザは国家権力のお目こぼしの中で生き、選挙の時は地元代議士の指示に従い組員を総動員し、自身の縄張り内の選挙権のある 住民達に投票すべき立候補者の名前を告げて期日前投票場まで車で送り迎えをしたり、政財界の闇の部分の紛争問題などの解決に関わったりし、 持ちつ持たれつの 関係でありながらも 、ヤクザは権力に従順である事で強かに生き残り、勢力を拡大して来ているのだ。 
 私は口にはしなかったが、自信過剰な小島健太郎の若さを密かに憐れんだものだった。
 私は小島が、ヤクザには珍しい 熟慮深謀な人物である事をその時には知らなかったのだ。
 今思うと、東京でブティックを経営していた華子と私がラスベガス出会った事も、華子との結婚も風間慎一との出会いも(陸前屋)の倒産までもが、綿密に描かれた小島健太郎の復讐劇のシナリオの一部であり、私も華子もそのシナリオどおりに動く登場人物に過ぎなかったのだ。
 しかしそんな事がわかったのはずっとずっと後の事で、小島健太郎というヤクザ者が、小島正雄代議士の弟の息子で有る事でさえ知らず、私は愚かにも私の人生を私の思い通りに生きているつもりでいたのだ。
 世の中に偶然などと云うものは無く全ては必然で、この世の中で起きる全ての出来事は、目には見えないとてつもなく大きな意思に誘導されているのかも知れない。
 株主総会とは名ばかり、典型的な一族経営の会社だから、出席したのは私とメインバンクの地方銀行の支店長と漁業組合の代表者と会計監査会社の係の4人だけで、華子の欠席を見越した風間の提案に従い、私はその株主総会で、母親が高齢であり、妹は社長の華子との意見の食い違いから役員を辞任した事を事後報告し、その責任を感じて華子が小島本家に帰ってしまった事を陳謝した
 そのうえで、(陸前屋)を再建する自信がないので倒産させようかと考えていると話したのだが、小島本家からの莫大な融資を察知していない銀行の支店長も漁業組合長も私の話には全く取り合わず、笑いながら華子を迎えに行く事を口々に勧めたのみだった。
 義父小島正雄代議士もまた、私が東京の弁護士に依頼し反撃してくるなどとは夢にも思ってはいなかったようで、私と華子の離婚を機に、江戸時代からの暖簾を誇る(陸前屋)を乗っ取る積りで、私が頭を下げに来るのを待っていたのだろう。
 村本弁護士からの私の答弁書を目にした時には一瞬唖然とし、そして激怒した事だろう。
 母親は御先祖さまが遺してくれた骨董品や絵画や貴金属の類を屋敷から運び出して二階建ての自身の家に引っ越し、華子と貴子の荷物もいつのまにか姿を消していた。 
 私は風間の指示に従い、鎧兜や刀剣類など嵩張る骨董品や貴金属を売り払い、その金を懐に東京北区飛鳥山公園口の小島健太郎の自宅に転がり込んだのだつた。
 陸前屋の倒産は風間が紹介してくれた村本弁護士が一方的に各方面に書面で通達。翌日には地元のマスコミが数社取材にやってきて、なにも聞かされていなかった社員達は右往左往し、ついにはお抱えのヤクザ者を引き連れ、小島代議士の長男小島正晴岩手県県会議長が(陸前屋)に乗り込んで来て、私の行方を探し廻っていると風間から私は情報を貰ったのだった。
 その頃私は、 要塞かとも思える小島健太郎の飛鳥山の屋敷で小島の客人として持てなされていた。
 (ヤクザ者に、女房子供は不要!)
 と云うのが小島健太郎の持論で、独身。
 小島は、これまで結婚も同棲すらした事はないという噂だった。しかし小島組の関係者達が、
 (赤坂の姐さん)
  だの
 (銀座の姐さん)
  だのと呼ぶ女性の存在が小島にはいた事から、正常な男で有る事には間違いないようで、広い屋敷には女性の気配は全くなかっが、塵一つ落ちてはいなかった。
 (部屋住み)と呼ばれるヤクザ志願の青少年が常時20人ほどいて、手分けして屋敷の清掃から小島を含めた全員の衣類の洗濯、食事まで作っていた。
 勿論来客への対応、電話の応対、私のような客人の接待なども彼らの仕事の一つだった。
 感心したのは何れもが礼儀正しくハキハキとしていて、ヤクザ者に対する私の概念を根底から覆したのだった。
 債権者会議の議長に就任した風間は、小島正雄大臣が差し向けたヤクザ者達を追い払った上、小島正晴県会議長に、(陸前屋)倒産の原因は小島正雄大臣の(陸前屋)の乗っ取り行為に有るとして、逆に損害賠償を求めたのだ。
 その日は(陸前屋)のだだっ広い駐車場は、東京品川ナンバーの外車でびっしりと埋まり、会社の玄関口や駐車場の入り口では、大勢のヤクザ者と県警の機動隊員とがにらみ合っていたそうだ。
 その日私は小島健太郎に彼の応接間に呼ばれていて、小島健太郎と雑談していると、電話の受信があり久米が受け、慇懃な応対の後小島健太郎に替わった。小島が
 「小島です。ご無沙汰しておりやす」
 と言い終わらないうちに、
 「小島さん、私の任期中にゴタゴタは困るよ。すぐに全員引き上げさせてくれないかな」
 と云う苛立った声が私の耳にも飛び込んで来た。
 小島健太郎は私に聞かせる為に、電話をスピーカーにしていたのだ。
 「お騒がせして申し訳ありやせん、直々の電話じやぁ居留守を使う訳にも顔を潰す訳にもいきませんね。わかりやした。それじやぁ小島正晴県会議長に、私に直接電話をするように伝えて頂けませんでしょうか?わかってやす。脅したりなんてしませんよ。私にも面子と云うものがありやすから、互いに弁護士を立てて法廷で決着を着けるという本人の言質さえ取れれば直ぐに全員引き上げさせますよ。なにか有ると大臣の名前を出してごり押ししてくる奴で、弁護士同士話し合いをさせている最中に田舎ヤクザを引き連れて乗っ込んで来たのは県会議長の方です。うちの若い者は血の気の多い者ばかりですから、現場で何かが起きてからでは私も引くにも引けなくなりやす。早目に電話をするようにお伝え頂ければ助かります。」
 と云うような意味合いの事を言い、相手が電話を切のを待ってから小島健太郎は受話器を久米の手に戻したのだった。
 小島正晴県会議長からの電話を待ている間のあの 張りつめた時間の事を、あれからすでに5年が経っているのだが私は決して忘れる事はできない。
緊張感と云うものが、強い伝染力を持つものである事を、私はこの時学んだ。
 小島と久米の両眼は血走り、獲物に襲いかかる野性の肉食動物の眼のようにギラギラとした光沢を放ち、額には青筋がたち頬の筋肉がピクピクと蠢いていた。
 二人は無言のままジッと三台のうちの一台の黒電話を睨みつけており、小島のズボンの裾が
小刻みに震えていた。とても  
 「今の電話は誰からでした?」
 などと私が声を掛ける事の出来る雰囲気ではなかった。
 ギヤンブルでも勝負どころというものがあって、一投に持ち金の総て賭ける時がある。私はその瞬間の 高揚感や緊張感の虜になっているのだが、そんなものが比較に為らない緊張感にその時の小島健太郎の応接間は支配されていた。
 それはかかってくるだろう一本の電話に、人生の全て命さえも賭けていると云ったピリピリとした気配で、漠然としたものではあったが、単に(陸前屋)の資産をめぐっての争いでは無い何か途方も無い計画が進行している事を感じた事を覚えている。
 私は息をするのさえ苦しく 、尿意があったのだが席を立つ事も出来なかった。
 僅か10分か15分ぐらいの時間だったのだが、私には1時間にも2時間にも思えたものだった。
 静寂を破って黒電話の呼び出し音が鳴り響いた時には、 尾籠な話だが不覚にも私は小便をちびつてしまったのだった。
 黒電話の呼び出し音が鳴り響いた時、小島も久米も同時にソフアから立ち上がり、久米は黒電話に突進し、受話器を取り上げようとして小島の顔を見た。
 小島が小さく首を横に振り、久米は跳ね返されたかのように受話器に伸ばしていた手を止め、苦笑いを浮かべると呼び出し音を2つ3つ遣り過ごしてから、落ち着いた様子で受話器を取った。
 その時私は頭上で
 「釣れた!」
 と云う小島の圧し殺した小さな声を耳にしたのだった。 
 横柄な物言いの小島正晴県会議長に対して、小島は終始低姿勢だった。
 言葉は穏やかだったが、眼の色が尋常ではなかった。
 (狙っている)
 爪や牙を研ぎ澄ました野獣が、噛みつく機会を狙っているのは明らかだった。  
 「、、、、健太郎が後ろで糸を引いとる事はわかっていたよ。居候のお前らを小島本家ではえろう面倒見てやったべさ、犬でも三日も飼えば恩を忘れんというから、儂が顔出しゃ直ぐに治まると思うたに、何の真似だなこの騒ぎは、この恩知らずが、健太郎にも言い分はあるだろうが、悪いようにはせん。すぐに引き揚げさせろ❗」
 恩知らずと云う言葉か出た時には、小島の頬の肉がピクリと動いたのだが、小島は声のトーンを変える事もなく
 「先生のおっしやる事は良くわかりやすが、しかし」
 と応じた。
 「しかしなんだね?お前が儂や小島本家に物が言える立場かね。ここで最前から儂を睨みつけとる蛙みたいな顔付きの債権者会議の責任者たら云うヤクザも健太郎の子分らしいが、儂の一言ですぐにでも刑務所に放り込めるんだぞ」
 「がははは蛙は良かった。そいつは風間と云いまして、風間組の組長です。少年の頃に愚連隊同しのガイマチ(抗争)で一人バラシ(殺し)ていますが、気のいい奴です。宜しくお願いしやすよ。」
 「なんだ、儂を脅しているつもりか?」
 「とんでもねぇ。先生を脅すなんて、そんな事出来る訳ねぇじゃありませんか」
 「そうだろう。健太郎がヤクザとして上のほうにいる事は分かったが、まだ上がおるんじやろう?その上を今回の首謀者として逮捕する事も、組自体潰す事だって儂には出来るんだぞ」
 「分かってますよ」
 「そうかわかってるのか。なら直ぐに引き揚げさせろ。悪いようにはせん。今の親父ならこの国のヤクザなんぞ、全員刑務所に放り込む事だって出来るんだが、知っているとは思うが、今は親父も大切な時期だからな、わかるだろう?」
 「分かりますよ。総裁選に出馬なさるそうで、そんな時に華子さんの嫁ぎ先の倒産がニュースネタになっちや、困りますよね」
 「ぜん~ぜん、困らないよ。親父の総理総裁は既定の事実でね。もう次の首相は小島正雄と決まっているんだよ。今ここにも何社か来とるようだが華子の事など親父の秘書の誰かが電話一本入れるだけでどこも記事にしやせんよ。親父は今第一次小島内閣の閣僚の人選と調整に忙殺されていて余計な神経を使わせたくないから、話を穏便に済ませようとしてわざわざ儂がで向いて来てるんだで。小島本家にとっちや、華子の事より、小島正雄の親戚にヤクザがいると云う事のほうが恥ずかしいよ、まぁ健太郎としちゃ、この機会に親父に自分の力を見せつけて取り入るつもりなのだろうが、無駄な事だ。親父はヤクザが嫌いだからな。だが儂は親父とは違う。何れ儂の時代がくる。悪いようにはせん、この兵隊さん達を直ぐに引き揚げさせろ。近いうちに飯でも喰おう。」 
 この時私は、小島健太郎の完敗だと思った。
だが小島健太郎は、その精悍な顔の口元に微かな微笑を浮かべ、
 「小島本家としちゃ、人殺しよりもヤクザの方が恥ずかしいって事だな?」 
 と言ったのだった。声のトーンも口調もそれまでとはガラリと変っていた。
 威圧感のある、ヤクザ者小島健太郎本来の言葉だった。
 「なに⁉何を言ってるんだ?ふん、死刑執行の事か。凶悪な殺人犯が死刑になるのは当然の事だろうが。健太郎も気を付けるんだな。理不尽に殺された本人でもない人間が、死刑反対を掲げて冷血人間のように親父を批難しているが、国民の大半は死刑制度に賛成で、終始一貫して毅然とした対応をしてきている親父を流石は次の首相、勇気があって頼もしいと称賛しているんだぞ。それが党内での親父の支持に繋がり、次の総裁を確実なものにしたんだよ。」
 「殺人者は殺人者を憎む。犯罪者は犯罪者に苛烈だからな。自分に嘘は通用しねえから、自分の心の声に脅えての事だろうよ」
 「待て健太郎。お前何が言いたいんだ?」
 「何が言いてぇんだと?おめぇ馬鹿か!根性だけじやぁなくペテン(頭)の方もよくねぇようだな」
 「なんだと❗中卒のお前に言われたくないな」
 「大学出たぐれぇがそんなに自慢か?親が金出してくれただけの事じゃねぇか。分からねぇか?分からねぇなら、馬鹿にも分かるように説明してやる。俺のお袋小島千代子は、正晴おめぇの親父小島正雄に殺されたんだよ」 
 その言葉を吐き出した瞬間の、小島健太郎の般若のような恐ろしい顔を、私は今でも忘れる事は出来ない。
 その後も私は小島健太郎とはいろいろとあったが、小島との縁が絶てずに唯々諾々と従って来ているのは、その時の狂気に憑依された恐ろしい小島の表情の影響も少なくはないと思う。
 小島は大口を開けて豪快に笑ってはいても、決して眼は笑ってはいなかった。
 いつの場合にも冷静で鋭い小島の眼が、突然狂気に憑依される瞬間を怖れていたのかも知れないし、どの様な場合にも誰に対しても、決して心を許さない小島の強靭な精神力に驚異と敬意を感じていたからかも知れない。
 


   続く