夕餉の後、寺子屋の真似事で論語の素読をやっている翔に

「おめぇ…医者にならねぇか?」

「…医者?」

驚いた顔の翔と
驚いた顔の雅紀と和也と潤。


「おめぇは身体を使って稼ぐよりも
頭を使って稼ぐ仕事の方が性に合ってんだろ。
医者も看板を掲げりゃぁお医者で御座いの世の中だが
ちゃんと医術を学んで、医者になるってぇのも
悪くねぇんじゃ無いのか?」

急な話しにボンヤリとしたまま

「俺が…医者に…?」

「これからは蘭学も必要だろう。
長崎に行って蘭方医学を学んで来るのもいいじゃねぇか…」

ちゃんとした医者に掛かれば翔の親父だって
死なずに済んだかもしれない…
安い医者は素人に毛が生えた程度の藪医者で
名医の声が高い医者はべら棒な治療費と薬代。
貧乏人が掛かれるはずもない。
貧乏人はまともな医者にも掛かれずに死んでいく。

翔を貧乏人を助ける本物の医者に…


「なが…さき…?」

「あぁ…どの道 医者になるには
住み込みで修業をしなきゃなんねぇからな…
どっかいい医者を探して弟子にして貰って
ゆくゆくは長崎に…」

「やだっ!!!長崎なんて行かないっ!」

翔が物凄い剣幕で俺の話しを遮った

「どうした?直ぐに行けって言ってる訳じゃねぇ…」

「やだよっ!医者なんてならない!
ずっとここに居ちゃぁ駄目なのかい?
高いところが怖いから…
植木職人になれなかったら…
ここに居ちゃ駄目なのかい?
やだよ…他所に行くのなんて…」

翔の大きな目から涙が零れて
膝の上で握りしめた拳を濡らした。

俺の膝に縋りついて

「智、お願いだよっ!
ここに置いてくれよ!
木登りだって練習するから…
怖いなんて言わないから…
だから…だから…」

翔の肩に手を置いた雅紀が

「翔…落ち着けよ…」

手拭いで翔の顔を拭いてやりながら

「翔は…あの店で辛い思いをしたから…
医者になるのが嫌なんじゃなくて
住み込みが嫌なんだよね?」

優しく声を掛けて翔の顔を覗き込むと
翔が俯いたまま小さく頷いて

「ここがいい…智と雅兄と和兄と潤兄と…
ずっと一緒に居たい…
だから…要らないって…
何でもするから…だから…」

泣きながら「ここがいい」と繰り返す。

そんな翔を智がため息をつきながら見降ろすと

「要らねぇなんて言ってねぇよ…
おめぇの将来をちっとばっかり考えただけだ。
おめぇは案外賢いから、ずっと湯屋で
三助の手伝いをさせとくにゃぁ勿体ねぇ。
手に職をつけるなら早ぇ方がいいと思ったまでよ…」