洗い桶を前にずらして

「顔は自分で洗え」

全身の垢を落としてやったところでやっと湯船につかる。

冷え切った身体に少し温めの湯が徐々に緊張を解いてゆく。

広い湯船の隅で小さくなって浸かっていた翔も
ギョロリと大きな目だけが目立つ顔に赤みが射してきて
それに比例して顔つきが穏やかになる。

「温かいね…」

余程気持ちいいのか初めて自分から口を開いた。


「おめぇ…どっから見てた?」

先ほどの事を問われて、緩んでいた顔に緊張が走る。

「………。」

「怒りぁしねぇ…俺がしくじったんだ…」

「………。」

お湯を両手で救って汗ばんだ顔を拭う。

「空き地に入るところからか?」

翔が小さく頷いた。

やっぱり…

今日、忍び込んだ商家は、あの空き地からは
通り一本離れてはいるが、盗人が入ったと知れれば
こんな餓鬼だとは言え、あの時の…と察しは付くだろう。


あの店の金は素人相手の賭場を開帳して得たもの…
発覚すれば島流しだ。

博打はご法度だが玄人や金持ちの道楽相手の賭場なら
俺の知ったこっちゃねぇ。
好き勝手に勝った負けたと騒いでりゃいい…

あの店の主は…
年頃の娘の居る親父を甘い言葉で誘い出して
最初にほんの少しいい思いをさせた後に身ぐるみ剥いで
挙句に高利の金を貸し付けて、最後は娘を売り払う。
下っ端のヤクザとつるんで、いかさま賭博を開いていた。


『暁見参』

蔵の柱に苦無(くない)で留められた朱書きの文字。

悪事を働いた金しか盗まない『暁』に目をつけられたことが
お上に知れれば己の悪事を人前に晒すことになる。

千両箱の一つが空になったくらいで騒ぎ立てるとは思えないが…

被害に遭った家の主が必死で隠し通すため
大っぴらに世間の口に立つことは無いが、
悪どい金を集めている奴らのあいだでは
『暁』の動向が大きな関心事となっていた。

みすみす千両を盗られるのは癪に障るが
暁の機嫌を損ねて悪事を公にされて
お上に身に覚えのある腹を探られるくらいなら
大人しく千両を差し出した方が…

金持ちの間では、そんな思惑もあり
積極的に『暁』を捕まえようとする者は居なかった。



さて…と。

衝動的に攫っては来たものの…
今更ながら攫ってきたことが悔やまれる。

だが…
もう帰す訳にはいかない。
こいつだって夜が明けて店の主人や番頭に見つかったら
どこで何をやってきたんだと折檻されるに違いない。


「お前…親はどうした?」

「…いない」

「いないとは?死んだか?」

「父ちゃんは死んだ。
母ちゃんは…母ちゃんは…」

大きな目に涙が盛り上がって溢れ落ちた。

「母ちゃんはいるのか?」

「分かんない…知らないオッちゃんが…
母ちゃんのこと連れてった。
母ちゃんが…俺に…ごめん…って…
母ちゃんが泣きながら…ごめん…って言って…」

その後は言葉にならなかった。
口を一文字に結んで声も無く涙を流す翔を見て
あの頃の俺が重なった。


そうだ…
だから攫って来たんだ。


俺はコイツを…

あの頃の俺を…放っておけなかったんだ…