様々な経験をしてきましたが、運のいい人、悪い人は確かにいると思う場面に何回も出くわしましたが、最終的には・・・人間万事塞翁が馬。当時を思い出しつつ紹介します。

 

その1

1990年代初め、IBMの特許に触れずにPC/ATのBIOSを開発したPhoenixーtecの日本代理店、UNIX関連のビジネスその他をやっていたSRIというベンチャ会社がありました。前身はソフトバンク総研(SRI:sofutobank research institute)、SRIはそのままに(strategic research institute)した会社です。社長はソフトバンクの役員をしていた三井物産出身の人物。このSRIに営業担当役員として所属していた友人がいました。時々一緒に米国に出張しましたが、あまり知性が感じられないいわゆるチャラチャラした人物で、社長としょっちゅう衝突していました。ある時遂にクビを宣言され、元の会社のトップであった孫さんに挨拶に行き、孫さん預かりとなり、秘書室長に。その後ソフトバンクが買収したYhaooの社長に就任。ヤフーオクーションなどを成功させ、年収1億円プレイヤ!しかし長続きせず、部下から社長としての采配の危うさを指摘され、任せていた孫さんは驚き、そして社長交代!でも、既に十分な資産(400億超!)があった彼は、箱根に30億超の別荘を建てたり、期せずして好きなことができる環境に!しかし・・・米国でクラッシックカーの草レースに出ていて自損事故で死亡。クビ⇒時代の寵児(巨億の財産)⇒左遷⇒遊びまくる⇒事故死という経過をたどった彼ですが、金銭面では幸運に恵まれたと思います。ただし、事故に遭うまでは!

 

その2

個人では抗えないその時々の社会情勢があります。私の場合、昭和50年にあったソフトウェアの自由化で、それまでやっていた冷凍空調製品に関する技術計算、製品の品質管理(統計計算)などの業務とは畑違いのOSの開発、それも中核のスーパーバイザの設計に回されたことがありました。全社からソフトウェア開発、SE部門に集められた要員は1000名を超えましたが、畑違い故、ついていけずに脱落(退職)する社員が続出し、中には自殺した者も出て、会社は慌てて、転勤者から状況を聞く場を設けました。新人ならともかく、実績を上げ、自信を持って仕事して来た元の職場から、逆らえない社命で畑違いの部門に配属になることの精神的な負担を軽く見ていたのかもしれません。

 

転勤前、私が所属していた事業所は、第一次石油ショックの影響を受け、その一年前にあった七夕の集中豪雨で事業所内に土砂が流れ込み操業不能!業績が大幅に落ち込み、全国で初めての帰休制度が実施され、マスコミが取材に来るほどでした。会社からは取材には応じないようにとの通達が出されていましたが、そうなるほどの大変な状況になっていました。私は転勤しましたが、残った先輩、同僚、後輩たちはどうなったのでしょう?実は、彼らは全国の特約店に営業支援に入ったりするなど、先の見えない中で大分苦労をしたようです。結果的に私は、当時隆盛を極めたコンピュータ事業部門に移って良かったということになります。

 

2年程経過してから、原子炉の設計製造を行う花形事業所でタービンの設計をやっていた東大院卒の先輩が転勤してきました。福島原発の事故があり、原発に逆風が吹いている今ですが、当時はその逆。光が当たっていた部門に在籍し、実績も上げていた彼は、どうして畑違いのOS開発の部門に転勤することになったのか?と思ったことでしょう。我々もどうしてこんなエリートが転勤してくるのだろうと訝っていました。その方は、淡々と仕事をこなしていましたが、内心忸怩たる思いがあったと思います。彼は定年まで勤めた後、今は技術翻訳者として頑張っていますが、家庭菜園を楽しみつつ晴耕雨読の毎日。見えない力に翻弄された・・・と思うのではなく抗えない力に逆らうことなく、ノートルダム女子大の渡辺和子学長のベストセラー『置かれたところで咲きなさい』のように、身を任せるという人生観だったのかもしれません。『どこで咲くかは自分で決める』という私とは反対でしたが、私はこの先輩を尊敬しています。

 

その3

次に紹介するのは、私の命を救ってくれた敏腕外科医の話です。ある時、腹部に鈍痛があり、なかなか治まらないのでこの病院の救急外来に。白血球数が2万を超えていることが分かり、虫垂炎の疑いで緊急手術を受けました。執刀したのは新人医師。腹膜炎を併発していましたが、術後経過が芳しくなく、新人医師の説明、処置に不信感を抱いていた時、病室に来られた総婦長が『何か困りごとはありますか』とのこと。術後3週間になるのに一向に回復傾向が見られず、主治医の技量に疑問を抱いていると伝えました。総婦長はすぐ動いてくれ、主治医は変わらなかったものの、当時外科科長だった敏腕外科医が診てくれました。で、再手術!腹部の切開排膿という手術で危ないところを救われました。その後、将来の院長と目されていたこの外科科長はがんを発症、声が出なくなるというアクシデント。それから30年以上経った今年4月、院長に就任したのは、知識不足、甘い見通しとへたくそな手技で大変な目に遭わせてくれた当時の新人医師!その病院は、医師、看護師など、総勢1500名超の大病院ですが、まったく分からないものです。

 

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