司馬遷の史記に『桃李もの言わざれども下自ら蹊を成す』という一節があります。桃李とはモモ、スモモのこと。蹊は、道、小道のこと。桃や李の実を採ろうと、たくさんの人が通るので、桃や李の木々の下には自然に人が集まり、道ができるというものです。

翻って、
・徳ある者の下には何ら特別なことをせずとも自然と人々が集まり、強制しなくても服する
・立派な行いを示す人の下には、自然と人が慕い集まる

という意味となります。
この自然、というところが大切です。職位、職権、権威で従わせるのではなく、自然にです。プロジェクトを円滑に進めるためには経験豊富で人望のあるプロジェクトリーダが理想です。ところが、職位、職権でお飾りで就任してしまう場合が往々にしてあります。従うのではなく、従わせる・・・自然ではありません。これではそのプロジェクトメンバの士気は上がらず、したがって生産性はあがらず、仕事する喜びも楽しみもありません会社も同じことです。東電会長の勝俣さんのように、天皇といわれるほど君臨していたはずなのに、原発事故は現場の責任などと言ってしまうリーダではアウトです。

 

私は過去、裸一貫から年間売上げ数百億の会社を立ち上げた社長が率いるディスカウント会社を約2年、年間16万人近い患者が来院する全国有数な単科の専門病院を約11年間、コンサルティングしてきました。コンサルティングの内容は、業務改革、改善とそれを踏まえた情報システムの整備です。トップは、いずれも教祖的な強烈な個性を持っていました。ただし、その個性の中には唯我独尊、問答無用の姿勢も入ります。唯我独尊、問答無用、これは桃李のように自然に人が集まり、道ができるということとは正反対なこと、リーダシップとは言いません。権威に物を言わせて議論を封じるのでは、組織は活性化しません。組織が活性化しないということは、環境の変化に弱く、発想も貧困になり、指示待ちを助長するということです。第三者として観察すると、以下のとおりでした。
 

権威を以て臨む(異論を差し挟む余地がなく、問答無用のトップダウン)
面従腹背が見て取れる(生活のため、やむを得ず従う)
 

トップが自信たっぷりに展開した持論に反論するのは難しく、桃李になっていない創業一族が仕切る企業や民間病院では日常的に見られる光景です。

『何かある?』に対して質問、意見を言える雰囲気がない
質問すると『黙って聞け』、黙って聞いていると『意見はないのか」と言われる
腰ぎんちゃく(ゴマすり)が忖度して代弁すこともある
自分が言わず、人に言わせる。責任は持たない(言ってないという)
勇気を出して質問、意見を言うと、『意味が分らない』と煙に巻く
意に沿わない意見に対して発する言葉。再説明を試みるのは危険!
痛いところを突かれると、『それは今議論することではない』として却下
しかし、別途機会を作ってやる、ということはない
反論できないと、『それは誤解だ』という
何をどう誤解しているのについての説明がないが、確認してはいけない
議長であるトップが席を外した時に本音の意見要望が出る
面従腹背になっていることを明白に示している

以上が典型的な例です。

打っても響かない鈍い者or納得してもらうのに時間がかかる者に、高速で回転するトップの頭脳はイライラすることもあるかも知れませんが、力で押さえ込まず、業務経験、常識を持つ者なら、桃李のように自然に理解できるロジカルな説明が欲しいものです。また、職位を始めとする権威やお金ではなく、その人の知識・経験・人品骨柄による、強制されない信頼・信用が求められます。人望というものです。
ダイエー創業者の中内氏が、『自分が意見を言うと、議論ではなく、結論になってしまう』と語っている記事を読んだことがあります。長年、問答無用で強力(強引)な率先垂範(悪い意味で)の上意下達環境下にいると、知らず知らずのうちに誰も意見を差し挟めない雰囲気が醸成されてしまっていることを如実に表している言葉です。自由闊達さを失ったヒラメ社員を抱えても企業(組織)は強くならないどころか衰退するでしょう。

 

以上、久しぶりに司馬遷の史記の一節を読み、自分の経験に照らし合わせて書きました。

 

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