放送で話していた、mixiに書いた超短編小説を転載。
よしなに。
「mixiで読んだ!」って人はスルーしてください。
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いいかげん新しい手袋を買わないと、いよいよ僕の手の指はアカギレてヒビ割れて、洗い物をする際に合成洗剤が沁みたり、女性の体に触れる際に相手の顔を曇らせたりしてしまうんじゃないかと思う。
今みたいに、自転車を漕いでいる時なんて特にそうだ。
その場しのぎ的に左右の手を交互にコートのポケットへ忍ばせてもみるが、その場しのぎはその場しのぎ以上の費用対効果を生み出すはずもなく、冷気に晒されている方の手の悲鳴が、断末魔となって僕の心に響き渡るのである。
仕方なく「選手交代!」といった感じで右手をポケットから出してハンドルを握らせると、左手をコートのポケットへと入れた。
ポケットの中で束の間の暖をとった右手も、すぐさま「無理無理無理! ギブギブ!」と言いながら恨めしそうにこちらを睨んでくる。
「もう少しだけ我慢して下さい。申し訳ない」と右手に謝りながら、漸く見えてきた我がアパートの屋根を目指して、僕は少しだけペダルを漕ぐ力を強めた。
こうしてアパートと駅の間を自転車で往復するようになってから、この冬で丸三年になる。
世田谷区の西の外れに位置する我がアパートは、駅まで徒歩25分。自転車で10分とちょっと。歩いて通っていた時期もあったが、さすがに面倒臭くなって近くの無印良品で自転車を購入したのが、ちょうど三年前の冬のことだ。
ただ、前のカゴと後ろの荷台がこんなにも軽い状態でペダルを漕ぐようになったのは、まだ最近のこと。一年も経ってないんじゃないだろうか。
おかげさまで運転はかなり楽になったし、口笛を吹きながらゆっくり左右にスライドして走らせたりもできるようになった。足の筋肉が落ちてしまった気はするけれど。
でも、どうしても、あの重みが恋しくなる時がある。
こんな風に冷え込む冬の夜などは、背中にあった温もりを思い出すこともある。
僕の腰に控えめに回った細い腕の感触を、探してしまったりもする。
前のカゴにオリジン弁当を積んでも、後ろの荷台にハードカバーを三冊くくりつけても、やっぱりあの重さとは全く違う。
「春爛漫」という言葉が良く似合う、四月の半ば頃だった。多摩川沿いに並ぶ桜の花はもうほとんど散ってしまって、ちょろちょろと新緑が芽吹き始めていた。
「私、もう君とは無理だ」
夕飯を食べ終わった彼女が、先に食べ終えてぼんやりとパソコンを眺めていた僕の背中に向かって、そう呟いた。青天の霹靂である。驚天動地だ。
「え? なんで? どうしたの、急に」
驚きと疑問を感じた僕は、驚きと疑問をそのまま彼女に投げかけた。
「うーん、やっぱり分かってないんだ。私さ、もう君のことを好きじゃない、と思う。一緒に居てもつまらないし」
少しだけ呆れた表情を浮かべて、彼女は真っ直ぐにこちらを見ながらゆっくりそう言うと、小さくため息を吐いた。
「全然気付かなかったというか、今更つまんないとかそういうことを感じるとは思わなかったよ。正直」
思考回路が完全にフリーズしてしまっている僕は、ただ彼女の言葉から感じた思いを、淡々と機械的に発音する情けない男と化していた。
「君はさ、家で仕事してて。私は朝起きて新宿まで満員電車に揺られて、夜まで会社で働いて、疲れて帰ってきて。自転車で迎えにきてくれたり、食事を作ってくれたり、そういうのはすごく嬉しかったし、いや今でも嬉しいんだけど。でも、君は全然興味ないかもしれないけど、私にも会社での人間関係とかがあってね……」
やや喋るスピードを増しながら、そこまで言って彼女は黙ってしまった。
「好きな人が、出来た?」
少しずつ思考回路が復旧しつつある僕は、言葉に詰まった彼女の代わりに、そう言った。
彼女は黙ったままコクンとうなずくと、すごく申し訳なさそうな顔をして、今度はさっきよりも数十倍大きなため息を吐いた。
「あのね」
この際だからもう全部言ってしまおう。そんな決意を瞳に滲ませて、彼女は小さく息を吸った。
「君はさ、私に関心がないように思っちゃうんだ。今だってそうでしょ? 私はこれでも君の彼女なのに、他に好きな人が出来たってどこか他人行儀。私が会社でどんな人と仲良くしたり、関わったりしているのかを話しても、いつも上の空っていうか『そうなんだ。良かったね』みたいな感じで、興味を持ってくれてない。
なんかね、私って君が思っている以上にワガママだし、ジコチューだし、興味を持たれたいの。恋人には特に。
結局さ、君は私のことなんか見てないんだよ。私のこと見てるふりしてさ、私と君との間の『彼氏彼女の関係』みたいな、関係性とか建前とかスタイルとか、そんなのばっか見てたんだよ。
だから、私のことを見てくれないような人とは、なんかもう一緒にいたくない。ごめん」
時々言葉に詰まりながらも、彼女は一気にそうまくしたてた。
返す言葉がない。何も言えない。そう言われると、全部その通りのような気もする。違うと思えば、違う気もする。何が正解なのか、何が間違いなのか、何を言えばいいのか、全くもって分からなかった。復旧しかけた思考回路は、再び完全にフリーズ状態である。
「だから、もう出ていく。明日」
彼女はそう呟くと、「これでもうおしまい!」とでも言いたげなすっきりとした表情になって、夕飯の後始末をし始めた。
僕は、少ししてから色々と自分の思うところを話したけれど、何を言ったのかは覚えていない。ただ、引き止めるようなことは言わなかった。「今までありがとう」的なお礼とともに、今までの思い出を語り合ったり、これからのことを話しながら笑い合った。
不思議と悲しくはなく、ただ漠然と「明日で、この人がいなくなる」という事実だけが眼前にあって、それはあくまでも他人事のように感じられた。現実的ではなかったのだ。きっと、突然過ぎて。
その夜、「きっと忘れると思うけど、一応覚えてたいし、君に覚えさせときたいんだよね」と彼女は悪戯っぽく笑いながら僕の体にしがみついてきて、僕らは体を重ねた。
少なくとも、それまでの僕らのセックスの中でもベストスリーにランクインするであろう、楽しくて官能的な夜だった。
彼女は、間違いなくあの夜を忘れただろう。
僕はといえば、彼女の目論見どおり、やっぱり覚えてしまっていて、夜中にふと思い出してはモジモジと体を揺すったりしている。
やっとのことでアパートに着いた。
両手に息を吹きかけながら、アパートの駐輪場に自転車を止める。
そろそろ新しい手袋を買わないと、本当に凍傷とかになってしまいそうだ。
やたらと足音が響く階段を上りながら、僕は手袋の値段の相場と財布の事情を照らし合わようとする。
しかしながら、手袋の値段の見当がまるでつかない。いくらぐらいで買える物なのだろう。ピンキリであるのは勿論だけれど。
「前に買ったのはいつだったっけ」と思い返す。あぁ、そういえば彼女が買ってくれたのだった。
二年前の冬。今日みたいに寒い夜だった。
彼女を後ろに乗せて駅からアパートへとペダルを漕ぐ道中、僕がずっと「手が寒い。寒いっていうか、むしろ痛い。アカギレになってヒビ割れになってしまう」と文句を垂れているものだから、「もう君の恨み節は聞きたくないから」と言って、どこからか買ってきてくれたのだった。
あの手袋は、冬が近づいてきたから今年もお世話になろうと押入れを探したところ、何故だか見つからなかった。
彼女が僕に物をくれたことはあまりなかったから、貴重な品だったのに。惜しいことをしたものである。
部屋に入る。
「ただいまー」
誰もいないのは承知の上で、電気のついていない部屋に向かって帰宅を告げる。
習慣というのは恐ろしいものだ。「ただいま」の声が小さいのが、彼女は嫌いだった。
やたらと思い出が顔を出す夜である。
彼女がいなくなったあの日は、別に悲しくも寂しくもなかったのに。
寂しいという感情は、もしかすると積もっていくものなのかもしれない。毎日毎日、毎晩毎晩、少しずつ、少しずつ。
テレビをつける。ニュース番組をやっていて、イチローがインタビュアーの質問に答えている。
「ヒットというものは、一本一本を重ねていくもの。僕は、そういった積み重ねにこそ、魅力を感じるんです」
なるほど。世界のイチローが言う事はやはり違うな。うん。
僕の感じる寂しさも、やっぱりイチローのヒットと同じで積み重なっていくものだ。
でも、ヒットは「○本」という単位だが、寂しさはどんな単位で数えればいいのだろう。そもそも、寂しさを数えたことがある人はいるのだろうか。寂しさを数えることは、できるのだろうか。
イチローのインタビューが終わると天気予報のコーナーになった。明日も、東京はカラッと晴れ渡るそうだ。
僕はテレビにも飽きて、リモコンで無造作に電源を落とした。
彼女は元気で暮らしているのだろうか。
そして、僕のこの妙な寂しさは、彼女への未練なのだろうか。それとも、ただ人恋しくて、最寄りの恋の思い出を引っ張り出して、心の暖をとろうとしているだけなのだろうか。
考えてもどうしようもない思いが、くるくると頭を巡る。
きっと、自転車のカゴに彼女の鞄の分の重さが足りなかったり、荷台に彼女の分の重さが足りなかったりするのがいけない。ふとしたことで、思い出してしまう。
「よおし」
誰に対しての、何に対しての「よおし」なのか分からないが、僕ははっきりとそう口にした。
明日は、新しい自転車を買いに行こう。もう荷台なんかいらない。マウンテンバイクなんて、かっこいいかもしれない。手袋もついでに買ってしまおう。
「よおし、よし」
自分に言い聞かせてるんだ、これはきっと。
もしかしたら、今のこの僕の姿を見てるはずも見れるはずもない彼女に対して「俺は明日から君のことなんか思い出さずに暮らしていくんだからな!」という宣戦布告をしたかったのかもしれないけれど。
積み重なった寂しさを振り払うかのように、僕は立ち上がった。
天気予報によれば、明日も晴れ。絶好の買い物日和である。