山口少佐の拳銃自決説を唱えたのは、五連隊遭難事故研究家、小笠原弧酒(故人)である。
小笠原は、山口少佐の親族から、山口少佐が兄の成澤後備中佐に「武人らしく身の始末をする」と話していた、成澤後備中佐が津川連隊長から「武人らしく自殺した」と聞き出したとする証言を得たとしていた。
新田次郎は、五連隊の遭難事故を小説に書きたいので援助してほしいと小笠原に話し、小笠原は無償で小原伍長の証言や特ダネなどを提供した。結局それらが、『八甲田山死の彷徨』の重要部分となった。やがて『八甲田山死の彷徨』は映画「八甲田山」の原作となる。
小説や映画によって、多くの人が山口少佐の死因は拳銃による自殺であると信じてしまった。
遭難当時に戻ると、
青森衛戍病院に入院した山口少佐のそばに拳銃はない。
山口少佐は遭難した演習に拳銃を携行していなかったのだ。
山口少佐が拳銃で自決するためには、誰かが拳銃を準備して山口少佐に渡さなければならない。そういったことにまず疑問が生じる。
それをクリアーして山口少佐が拳銃で自殺をしたとする。病院内に銃声が鳴り響き、入院患者、看護手、軍医らは何事かと騒ぎ始める。
病院内にいた全員が、山口少佐の自殺を知ることになる。そうしたことからすると、明治のときから拳銃自決説がくすぶっていなければならないのだが、そのようなことは探し出すことができなかった。
昭和になってから生存者である伊藤元中尉、小原元伍長、阿部卯吉元1等卒、後藤惣助元2等卒らが遭難事故に関して明確に証言している。彼らの証言には山口少佐が自殺したとするものはなく、またそうしたのを窺い知ることもできない。
伊藤元中尉は山口少佐が演習部隊を指揮したことを強く批判していたが、山口少佐の死に関しては、「二月二日侍従武官より御沙汰を排してから死亡されたのである」と話している。
小原元伍長は遭難事故で見聞したことを正直に話していた。上司である倉石大尉の愚行を批判している。だとすると、山口少佐の死に関しても偽りなく話したに違いない。小原元伍長はこう話している。「わしら方の組に入った人は4,5人生きて病院に来ましたよ。だけどもやっぱり病院に入って間も亡くなりましたね。大隊長も生きて来ました」。また、真偽はわからないとしながら、山口少佐の父から腹を切れとの手紙があったというのを聞いたと話した。それに関しての背景として、ある新聞に山口少佐の父が死を進めたとする記事が載っていたのに対し、報知新聞が、山口少佐の実兄が実父や義父はすでに死去しているとした話を記事にして反論していた。
拳銃自決説は昭和40年以降になって突然と出現した。もし山口少佐が拳銃で自決したのであれば、その痕跡に基づいた遺族の証言がないのはどうしてなのだろうと疑問が浮かぶ。そして、この拳銃自決説の根拠は、「実兄が連隊長から自殺したことを聞き出した」ということ一つであり、親族はそれを聞いたとし、それから小笠原がそうしたことを聞いたということなのだ。
陸軍大臣から派遣された武谷軍医正は、山口少佐は心臓麻痺で死亡したと陸軍大臣に報告している。
拳銃自決説からすると、この報告は偽りとなる。しかしながら、陸軍大臣の幕僚が陸軍大臣に偽りの報告をするはずもない。
この件に関して偽りの報告をしてどういった利点があるのかよくわからない。
ちなみに、武谷軍医正の報告は通信帳に書かれたもので私信に近く、表向きの内容を書く必要もない。
結局のところ、山口少佐は報告にあったとおり、心臓麻痺で死亡したというしかない。
平成になると、陸軍大臣による暗殺説まででてきた。暗殺説は拙著『八甲田山 消された真実』で、具体的事象でその誤りを示しているのでそちらを参考にしていただきたい。
(来週に続く)