―6月19日 晴 30.0℃

 午後4時、総理衙門から各国公使に通知文書がとどく。

「大沽碇泊列国艦隊司令長官は大沽砲台の開放を請求せり。是れ列国より釁端(きんたん)を拓くものなり。尚お中国民心激昂非常にして、政府は外人に対し充分に保護すること能わず。因て二十四時間以内に天津に退去すべし」

 これは北京政府からの最後通牒のようなもので時間が翌20日午後4時と迫っていた。直ちに各国の公使による会議が行なわれたが、議論は紛糾する。独公使フォン・ケラーは公使が一団となって総理衙門に押しかけ、清国政府を強要して休戦を承認させるべきだと提議したらしいが、否決されたようだ。夜遅くにまとまった回答は次のようなものだった。

 

 大沽砲台明け渡し要求のことは各国公使の全く知らないことである。しかし立ち退けというならやむを得ないから出ていくが、多数の婦人、小児、病人などもいることだから、わずか24時間以内にというわけにはいかないので、しばらく時間を延ばしてほしい。また駕籠、車、船の運搬具も必要数準備してもらいたい。さらに途中の安全のために護衛をしてほしい。そのために総理衙門の大臣一人を同行させてもらいたい。これら要求を満たしてくれるならば出て行こう。なおこれに対する回答をすぐさまよこしてほしい。いずれ明20日午前9時には各国公使が打ち揃って総理衙門で万事打ち合わせをしよう。

 

 その夜、西公使は日本人を集めてことの次第を話し、最後に諭すように言った。

「時間の延期も請求したけれども、支那人のことである故、承知もしないか知れない、又運搬具を整えて呉れと云うてやったが、之も到底整えては呉れないかも知れぬ。併しそれは已むを得無いとして、今日の場合になって、彼是云うも無益なれば何に致せ、翌日天津へ引揚げる準備をしなければならぬ、先ず行ける所まで行って見よう、死なば諸共だ、唯如何なる場合に於いても、日本人の名誉を損ぜぬことが肝要だ、斯かる時こそ大和魂の見せ所である……」

 西公使は妻の峰子が病床にあり心配だったが、天に任せるしかないと覚悟していたらしい。この窮地に陥った原因として西公使以下が情勢判断を誤ったからと言えなくもないが、この西公使のことばには私心を捨てた潔さがあった。皆はその気になって出発の準備に取りかかった。中川軍医と山方看護手は公使夫人のために籐の寝椅子に棒をつけてにわかの担架を作っていた。

 

 柴中佐は考えていた。数百の婦女子や病人をわずか400ばかりの兵で、無数の義和団の中を通って30里もある天津に行くことは到底覚束ない。また清軍の護衛を信頼することもできない。今北京を引揚げて出ていくのはずいぶんと危険なことで、それよりもむしろ残って必死に防戦した方がいいだろう、と。しかしそれが確かに得策だという見込みもなく、すでに引き上げと決議したことなので皆が一致団結して行動し、万一の幸運に期待するのも一策だろうと柴中佐は決心したのだった。(つづく)