八光流 道場記

八光流 道場記

京都で約30年、師範をやっております。
つれづれなるままに書き綴ってまいります。

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点滴5日目 獣医が低い声で言った。

「残念ですが快復の兆候が見られません」


おれは「そうでしょうね苦しそうな呼吸をしてるしこいつが他人の前で腹を見せて寝るなんて考えられない事ですから」と力無く言った。


結局これ以上点滴を続けても辛い状態を引き延ばすだけだと獣医が判断したのでこの日で点滴を中止した。


アクが倒れた日から1週間おれは、殆ど寝ないでアクの看病をしていた。

看病と言っても定時に水をスポイトで飲ませる事と容態が急変しないか見ている位しか出来なかった。


おれは1週間自分の部屋で寝ないでアクの寝ている玄関の下駄箱の扉にもたれて座り仮眠を取っていたが、さすがに睡眠不足と気疲れでフラフラになった。


おれは30分だけでも自分の部屋のベッドで寝る事にした。

「少しだけ二階で寝て来る」おれはアクにそう言ってその場を離れた。


アクの寝ている玄関の真上の部屋がおれの部屋だった。


久しぶりにベッドに横たわるとこれまでのアクの思い出が次々と甦って来た。


自分より大きな犬や野犬の集団と勇敢に闘っている姿 野山を風のように駆け巡る姿 それとは逆に日溜りで呑気に昼寝している姿が浮かんで来る。


そして切り立った崖の頂上で青空を背にして足を踏ん張って立っているアクの姿を鮮明に思い出しそのアクに「オォーイ アク!」と呼び掛けた所で目が覚めた。


ほんの少し眠るつもりが1時間以上眠っていた。


おれは胸騒ぎがして部屋のドアを開けて階段の下を見た。


そこには、顎を下に着けて一直線の体勢で伏せてこちらを見ているアクが居た。


それは、アクが狙った相手を待ち伏せする時の姿勢だった。


「治ったのか?」とおれは階段を降りてアクに近付いた。


だが、アクは既に息をしていなかった。


「お前って奴は死ぬ間際にそんな姿勢を取ったのか?」


アクは、最期の勇姿を見せて死んだ。

そしてその目は、おれの部屋のドアの方を見詰めていた。

あの時 あいつの目には、おれの姿が映っていたのかも知れない。


こうして おれの生き方に大きな影響を与えたアクと言う黒い北海道犬の一生は終わった。


おれは、泣かなかった。

泣かない事がアクへの手向けのような気がしたからだ。


「さらば 友よ」おれは涙を堪えて心の中でアクに別れの言葉を送った。



昔 悪い神が熊に化けて人々を襲った。

それを見兼ねた良い神が怒り犬に化けて熊を倒した。

北海道の先住民アイヌの神話にそんな話がある。


長い長い時が流れ ある日良い神は、孤独な高校生の少年を見掛けた。

良い神は、少年の偏屈で荒んだ心を憂い再び犬に化けてその少年に寄り添ってやる事にした。

更に時が流れ 大人になった少年は、八光流と言う武道の師範になりやがて彼の周りに人々が集まるようになって行った。


それを見届けた良い神は、自分の役割が終わった事を確信して天に帰って行った。