サムネイル
 

皆さま、
おは・こんにち・ばんは。


盆の檀家さんまわりも、

本日で終了。



暑かったですが、

地域の温かさも感じました。


父子ともに、

感謝申し上げます。


残すは..

明日の森供養のみですね🙄



さて..。


告知通り、



    

戦後、本堂の屋根裏に居候していた
親戚(海軍将校)のエピソード


長くても伝わりづらい..

文字数の上限もある..


ということで、、



①.自伝の一部(コメントを添えて)

↑旧字体や言い回しはわかりやすく修正


②.戦後のエピソード



2つの記事に分け、

展開していきます。




まず、

親戚のプロフィールから..


旧制中学→海軍兵学校卒
(航空畑へ進む)

階級:海軍中尉
(偵察と空輸が仕事)

帝国海軍の偵察飛行隊 所属
(鹿屋基地で終戦を迎えた)

復員輸送へ従事。
その後、1948年まで西光寺本堂の屋根裏部屋に住む。
居候する日々のなか、集落の子ども達へ勉強を教えていた。
1948年以降、故郷(酒田)の発展に尽力。




(画像を押して広げて下さい)


サムネイル
 

たまたま電信室を通りかかったところ、相談されたようです。

不確かな情報の拡散→混乱を恐れ、保留にしたのだと考えられます。




サムネイル
 

19日まで、"降伏を知らなかった"ということでしょうか。
もしくは、"玉音放送を認めていなかった"のでしょうか..。

興味深い記述です。



サムネイル
 

「​組織と整然たる統制が、物の混乱のままの混乱であった」

..言葉選びがキレイですね。



サムネイル
 

搭乗割..
"オーダー"のようなもの..でしょうか。
そういった事務仕事も担っていたようです。



サムネイル
 

てか..
なんでこうも、西光寺に絡む方々は歌を詠むのでしょうか..

(個人名が出ておりますが、簡単に個人情報へ到達できない箇所を選んでいます)





サムネイル
 
どうやら..
鹿屋基地を飛び立った一行は、海岸線や河川に沿って、神町飛行場(現.山形空港)を目指したようです。

「兵指導の要訣はここにあり」
..カッコいいですね。




サムネイル
 

​終わりは始まり..。

ここから、親戚の第2の人生が始まったのでしょう。

「..鹿屋でもそうであったようにセミが鳴き尽くしていた」

当時の情景が伝わってきますね。