7月30日の16時半から葬儀屋さんとの最終打ち合わせがあり、会場である斎場に向かった。
乗り換え駅で雨が降りだし、斎場行きのバス停に着く頃には大雨。日傘ではなく雨傘を持っていたが怯むほどの雨脚。
なのに私はどうしても欲しい洋服を買うために店に寄った。ラス2で購入してからバスに乗り、「確か高校3年の三者面談で母がこのあたりでスーツを買ったんだよね」と思い起こす。
打ち合わせ自体はそれほどかからず、式中の音楽CDをきょうだいが探してきてかけてあった。
棺に入れるお菓子はきょうだいが買ってくることになっていたが、帰り道で目に留まった花園饅頭のぬれ甘なつとをついつい買ってしまう。
「これ、お母さんよりお父さんの方が好きだったんじゃないかな…」絶対つまんでいたであろう母の顔が想像できるのでよしとした。
娘が上京して参列することになっていて、睦月さん(仮)に迎えを頼んでいた。当の娘は「わたしが夕ご飯を作っておくから黒いストッキングを買ってきて」とLINEを寄越していた。そちらの用事も済ませての帰宅は18時半。この頃には雨は上がっている。
用意された食事を3人で食べる。その途中で私は思いついた探し物を発掘していた。
父の義姉が平成元年に逝去した際、パールの指輪を貰っているのだが、指(関節)が太い私には入らない。それを娘に渡すと、驚いた顔をしながら「ありがとう」と受け取ってくれた。
昨年の夏に入院する際に母がしていたパールの指輪があって、危険だからと私が預かったままだったので、出して来て私がつける。
それぞれの指輪は大きく、人差し指でホールドするしかないのだが、葬儀の際は各々で身につけることにした。
睦月さん(仮)は「暑いから上着を持って行かない」と主張する。確かにそうだが…実際は皆さん着ておられたのだが…強くは言えないので「お好きにどうぞ」と申し渡す。それよりも翌日早いのにこの2人の酒盛りはどうなるのだろうと気にしつつ、早めに寝る。
7月31日。起きたのは早いが支度に時間がかかり、予定のバスに乗れず次のバスになった。「座りたいから各駅で」と娘が言う。
途中には父がいる施設があり、心の中で行ってきますと伝える。父がよく、主治医に言っていた「彼女を送りだすのが私の使命」を思い出す。
斎場に着き、睦月さん(仮)と娘が母と会う。「入院した日にトイレに手を取って付き添ったのが最後になるとは…」と呟く睦月さん(仮)
「おばあちゃん。結婚したのよわたし」とスマホの写真を見せる娘。
祭壇にはお菓子が積まれているので、参列してくれた親戚が「どれだけ好きなんだよ」と笑う。
式が始まり、お坊さんの読経を聞く。終わってから娘が「お坊さんの話は身に染みるよね。よく分かる」と言っていた。
戒名を頂いてその説明をしてくれた。30日の帰途、きょうだいに連絡があり、「お母さん、何が得意だった?」と尋ねられて、「裁縫。最後に作ったのはめいちゃんが2歳くらいの洋服かな」と答えて、そのまま返してくれた。なので母の戒名には”縫”が入っている。
斎場に来たのは平成5年だったと叔父が教えてくれた。叔父の母親が亡くなった時には母はうつ病のため入退院を繰り返していたのだが、夜中ずっと起きて線香を絶やさず、叔父を寝かせようと心を砕いた。私が駆け付けた時は車の中で寝ていて、父が「そのままにしてやって」と気遣っていた。
棺に入れたのはお菓子と洋服。きょうだいが買ってあげたブラウス・私が買ってあげたユニクロのAnna SuiコラボのTシャツともう1枚のブラウス。
親族が「お母さん、このTシャツお気に入りでしたね」と話していた。
写真はきょうだいと叔父が持ってきた母の幼い頃の写真と、私が持参した父の近影を入れた。そして花に包まれて…睦月さん(仮)が「お顔にこの花ばぶつかってるからずらそう」「足元にも花を」と指示をする。外さない人だ、彼は。
火葬をするあの場所は苦手だ。
何よりも辛い。必要なことだと分かっていても、ああ、ここに来たんだと現実を突きつけられる。
そして母は荼毘に付された。
お骨を拾う時は子供たちの職業が如実に出る。「ほう。これが○○骨」「あら歯がきちんと残っている」親族、苦笑している。
葬儀の際に位牌を持つのが喪主・遺影は私だったのだが、この時から順番が変わる。
遺骨を持つ喪主・位牌を持つ私・そして遺影は娘が持つ。
戸惑っていた娘だが、血縁があるのは彼女で妥当だと話をして決めたのだと伝える。
全てが終わり、きょうだいは遺骨を持って実家に向かう。私たちは叔父と駅までタクシーで向かう。
葬儀の終わりに撮って貰った集合写真と新しく作られた祭壇の写真を添えて、会葬お礼を伝えた夕方、東京はゲリラ豪雨に見舞われていた。