※今回の話は決して気持ちの良い話ではありません。終始愚痴とネガティブ思考の回です。むしろ、不快に感じる人もいるかと思います。興味のない人、他人の闇の部分に対して抵抗を感じる人は見ない方がいいと思います。
もし、この文章を読む人がいるとしたら、初めに考えてみてください。
あなたが一番好きな人、大切な人は誰ですか? いますか? 答えられますか?
私には答えられません。
では反対に、あなたが一番嫌いな人、不快に感じる人は誰ですか?
私は「私」です。
職場にいるとどうにも惨めな気持ちが止まらない。昨日はミスをした。今日もミスをした。おそらく、次の仕事でもミスをする。
もしかしたら、既に過去に何かしらのミスをしていて気づかずに日々を過ごし、そのミスが明日発覚して私を追い詰めるかもしれない。
ミスをする度、ミスが発覚する度、頭の中は一つの事だけを考え回ろうともしない。その間に見逃しては行けない事案を見逃し、次のミスにつながる。
ある日、会社の上司が私に言いました。
「人間ミスはするものだ」「ミスはしてもいい」
申し訳ありません。意味がわかりません。
確かに、私も療育の活動中、失敗した子どもに対して「失敗してもいいよ」「次はどうすればいいか考えよう」と声を掛ける。
でも考えてみて欲しい。子どもに責任はありますか?
私はお金をもらって仕事をしています。パートとはいえ、私の業務は職場の内外に関わらず多くの人に関係があります。
仮にも30代前半の私にもそのぐらいのことはわかります。
なのに「ミスをしてもいい」...いや、だめでしょ。反省・改善は考えますがやはりダメなものはダメです。
別の日、現場の先輩が私に言いました。
「〇〇(私の名前)ができるようになった部分も受け入れて欲しい」「他の職員も心配している」
私を今の職場に引っ張ってくれた先輩で、本当に尊敬している人です。私にとって数少ない信用に値する人です。
それでも納得ができませんでした。そもそも、人が人を信頼・信用するにはその根拠が必要だと私は考えます。
今までの職場でも、今の職場でも数えきれない程のミスをしました。今の職場に来てからはミスの根っこと言える自分の課題の部分も見えてきました。それらを照らし合わせると、いつも同じような課題のミスを繰り返しています。
そう、何も変わっていないのです。そんな私の一体何を根拠に「私ができるようになった事」を信じればいいのでしょうか?
休日、いろんなことをして楽しいと思う瞬間は多々あります。もちろん一人で過ごす時間、他者と一緒に過ごす時間のどちらもです。
それでも、その時間が終わると自分の存在に不快感を感じます。ひどい時には楽しい時間を過ごしている最中にも「自分がこんな楽しいことをしていていいのだろうか」と考えます。
私には、自分で自分の命を終わらせる勇気はありません。だからこそ、「自分」という時間が早く終わればいいのにと考えることをやめられません。