さて、需要はないかもしれませんが、私の大好きな大内氏についての講演等にこの1ヶ月いろいろ行ったのでそれについて、ご報告したいと思います。(タイトル長くてすんません^_^;)
興味のない方はスルーしていただいて構いませんm(_ _)m
大内氏好きが過ぎるあまり、受験2日前にこのシンポジウムに行ってきたのです笑
ちなみに入場は無料でしたが、無論中学生は私一人…会場内の高齢化率は90%を超えているといっていいでしょう^_^;
さて、まず行われましたのが愛媛大学の川岡勉先生の基調講演。「大内氏と西国大名」という題でお話しされました。
ここでは大内氏の西国社会における存在についてお話が聞けました。
簡単にまとめると大内氏は室町殿と各大名との間に立つ存在のようで、その理由は他の大名とは違って朝鮮、明との密接な関係を持っていたり、細川や畠山ほどではないにしろ、密接に室町殿と結びついていたという点から分かります。
続いて、尼子氏から見た大内氏という題で、島根大学の長谷川博史先生がお話しされました。
こちらも簡単にまとめると、尼子氏は大内氏と共に、中国地方の二大勢力だったが、新興大名であった故に大内氏とは家格に差があった。そのため敵対関係にあっても贈り物を送ったりと、尼子氏が大内氏を敬うことも見られるのだそう。
続いて、大友氏から見た大内氏という題で、熊本県立美術館の学芸員、山田貴司先生がお話しされました。
大友氏と大内氏は筑前などを巡り、敵対関係にあったが、何度も婚姻関係を結んでいたりと一見矛盾しているような関係が分かる。しかし、博多を大内氏と共に分割支配したりとか、大内氏の家督相続時に敗れた方が大友氏側に逃げ込んだりとその時代によって持ちつ持たれつという関係が築かれていたことが分かります。
そして、受験も終わった後の土曜日。次なる大内氏イベントがこちら。
みんな大好き、吉敷の凌雲寺跡遺跡の惣門前にて説明会が開かれました。
これまでも開かれていたようですが、私は初参加です。
山口市文化財保護課の方が約1時間半にわたり、発掘状況や、新たに判明したことなどについて説明されました。
まず、凌雲寺跡が位置する地形的なことについて説明を受けました。
凌雲寺跡は山からの土石流などが堆積した土地の上にあり、その両端はそれぞれ川の流れによって削られているとのこと。
大内氏時代の石垣は巨石で、規則正しく並んでいるのに対し、後世の棚田のものは小石が多く、不規則に並べられているのです。そこのところを見分けつつ、大内氏時代の遺構を取り出しているのです。
そしてこの奥にはまた一列に石段があり、その奥には石垣がならんでいます。ただし、赤丸のところは石の積み方を見てわかる通り、後世のものなので、ここを除いて考えると惣門から寺の本堂の方に向かって階段が設けられた直線の参道があったということです。
ただし、こちらは道幅が広く、階段の段も急なようです。このことからわかるのはこちらの参道は儀式や大内家当主が来るときの正式な参道だろうと推測されるわけです。
では一般用の参道はといいますと、先の参道より少し横にずれたところから同じく階段が設けられ、先ほどのより幅が狭めの参道跡と考えられる遺構が見つかってます。
↑一般用の参道(通用口)の入口と考えられる場所。
↑一般用の参道(通用口)の入口と考えられる場所。
この2種類の参道に一致するのは階段の位置。
つまり、階段は横に一列上にあったわけでして、文化財保護課の方が方眼用紙に今回わかった石垣などが書かれたマップを落とし込むと、驚くべきことがわかったのです。
なんと惣門から階段、そして階段から石垣はそれぞれ10.1mごとにあったのです。この10.1mという単位、一見微妙な値に見えるのですが、実は10.1mは10丈(30.3m)の3分の1という長さでもあります。
これはやはり精度の高い測量技術を用いて、この凌雲寺が造られたといっていいでしょう。
ちなみにこの巨石には2種類あって花崗岩と堆積岩の2つがあります。
先述の通り、ここは土石流によって形づくられた土地ですから、もともとゴロゴロ巨石があったようです。
ただし、花崗岩と堆積岩はそれぞれ産地が異なり、花崗岩は鴻ノ峰側から来たもの、堆積岩は西鳳翩山側から来たものだそうです。花崗岩が9割、堆積岩が1割使用されていたそうで、見た目の違いからデザイン的なことも考えて石が配置されたとも考えられているのだとか。
とまぁこんな具合に大変密度の深い時間を説明会では過ごさせていただきました。歴史に興味無い方でも充分楽しめます(´∇`)
次回からもたまりにたまってるネタを放出しますが、チャリンコ成分はほぼないので、そこんとこよろしくお願いしますm(_ _)m