博多マンゴーです
さて、今日はちょっと自己紹介がてら、オーストラリアの永住との出会いを書きますね
私、博多マンゴーは福岡市でひとりっ子として生まれ育ち、2007年からここシドニーに住んでます
2005年から一年ほど西オーストラリア州、パースでホームステイと語学留学も経験しました
パースで英語を学んだ後、「帰りたくない」思い満載で福岡に戻りましたが、半年後に福岡を発ち、シドニーに永住目的で住み始めたのが2007年3月
パースで語学留学を終え、日本に帰る直前に私の心に根付いた「オーストラリアに絶対に住みたい」って思い
でも、どうやったら永住できるのか、その当時は全くわかりませんでした
福岡に帰っても、その夢がどうしても諦められずに、色々と暗中模索を繰り返していたら.......
ある情報にヒットしたんですよ
それは、「私にとって」永住権申請への1番の近道になりそうな
「オーストラリアで調理師になる」
ってことでした
日本では、高卒で就職して20年勤めた「金融」しか知らない私でした
でも、なんとしても手に入れたい「オーストラリア永住ビザ」の為に、突き動かされるようにシドニーの調理師学校に留学したんです
その年は2007年、私は42歳でした
当時、「調理師のカテゴリー」でオーストラリア永住ビザを申請するには、
2年間の調理師学校での就学
900時間の「調理師」としての就労経験(無給でも可)
学校で、政府が指定した科目を終了した後に1年間「調理師」としての就労経験
オーストラリア政府が指定する機関からの「調理師」としての認定
オーストラリア政府指定の英語の試験で、政府が指定するポイント以上を取る
これらが主な条件だったと思います
正直、記憶が定かじゃないです(笑)
各条件にはポイントが設定されてあり、条件をクリアするごとに、そのポイントが加算され、自分の獲得ポイントが110ポイント(またまた記憶が定かじゃないですが(笑)) に達したら晴れて「永住ビザの申請」ができました
年齢にもポイントがついてたんですよ
若ければ若いほどポイントが高いんです
私は当時42歳でしたので、最低ポイントでした(笑)
当時はね、「45歳の誕生日に年齢ポイントがゼロになるシステム」でしたので、私は、絶対それまでに申請する必要があったんですね
45歳になった時点で、私は申請可能合計ポイントに満たなくなってしまうんです
いや〜、もう必死でしたね(笑)
周りからは
「オージー見つけて結婚すりゃいいやん」
ってよく言われてましたが、そんなことすら考えるヒマなく、学校とバイトに、ボロボロになりながら明け暮れてました(笑)
最初に通っていた学校が、永住権目的で学んでいる生徒数人に調理師免許を売っていたことが発覚して、その学校が閉鎖されることになり、私は別の学校に移ったりもしました
ま、色々と紆余曲折ありましたが、晴れて永住ビザを申請したのが2009年の後半。45歳の誕生日にかなり近くなってのギリギリ滑り込み申請でした(笑)
それから、3年間の仮ビザを経て2012年の6月の終わりにめでたく、念願のオーストラリア永住ビザが私の元にやってきました
この「永住ビザ」って、国の情勢によって申請条件や審査の仕方、移民の年間受け入れ数などがコロッと変わったりもします
実際、私が申請に漕ぎ着けるまでも何かと変更がありました
極め付けは、ようやく申請済ませて4、5ヶ月経った時に、オーストラリア政府が発表したこんな内容.......
「調理師、その他の職業で永住ビザを申請した人達の申請書類は、当分の間審査の対象から外します。国に帰りたい人達は、申請料金返金するから国に帰ってね。それでも待つなら待ってもいいけど、いつ審査を再開するかは全く未定です」
私が申請書類を提出し、ホッとして審査の判定を「まだかな〜」って待っていた時でした
もうね〜
は???
でしたよ(笑)
その当時、政府は「オーストラリアにおける重要職業リスト」に上がっている、
医師、看護師、教師、などの方々を優先して審査してたんです。
でも当時、私がお世話になってた移民エージェントは、
「とにかくオーストラリアから出ずに待ってれば必ず永住ビザは下りる」
ってことでしたので、
待ちましたよ〜(笑)
信じて待ってて良かったです
という時代を経て(笑)現在シドニーで幸せに暮らしております
「信じる」ってものすごいパワーとエネルギーを放出するんだと思います
ここ2、3年は私の「信じるパワー」が停滞していたんですが、また磨きをかけていきますよー
いろんな方々の素敵なブログに出会い、私もまた力が蘇ってきました
みなさん本当にありがとうございます
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