「密教」とはどんな教えなんだろうか。
密教以外の教えを「顕教(けんぎょう)」という。

「顕教は塵を払い、密教は蔵を開く。」
「顕教」は表面の塵(ちり)を払うのに対して、「密教」は本質に入り込むのである。
密は秘密である。
秘密には2種類ある。
一つは「如来(にょらい)の秘密」であり、もう一つは「衆生(しゅじょう)の秘密」である。
「如来(にょらい)の秘密」とは、教えたくても教えてはいけない秘密のことである。
この秘密を教えることは相手にとって毒になる。
相手の能力を見て、秘密は徐々に明かされるべきである。
「衆生(しゅじょう)の秘密」とは、そこに本当はあるのだけれど、自分の目がかすんでいるために見えない秘密。
つまり受け取る受信器がないため、秘密のようになっている。
大切なことは自分の目を開くことであり、そうすれば本当の姿が見えてくるということである。
「目」というのは親にもらった目ではない。
自分の修行や日常生活の生き様が、ものが見えるか見えないかの分岐点になる。
密教では「衆生(しゅじょう)の秘密」に重きを置いている。
修行をして目を開かせることを主眼とした厳しい教えなのである。
密教以外の教えを「顕教(けんぎょう)」という。

「顕教は塵を払い、密教は蔵を開く。」
「顕教」は表面の塵(ちり)を払うのに対して、「密教」は本質に入り込むのである。
密は秘密である。
秘密には2種類ある。
一つは「如来(にょらい)の秘密」であり、もう一つは「衆生(しゅじょう)の秘密」である。
「如来(にょらい)の秘密」とは、教えたくても教えてはいけない秘密のことである。
この秘密を教えることは相手にとって毒になる。
相手の能力を見て、秘密は徐々に明かされるべきである。
「衆生(しゅじょう)の秘密」とは、そこに本当はあるのだけれど、自分の目がかすんでいるために見えない秘密。
つまり受け取る受信器がないため、秘密のようになっている。
大切なことは自分の目を開くことであり、そうすれば本当の姿が見えてくるということである。
「目」というのは親にもらった目ではない。
自分の修行や日常生活の生き様が、ものが見えるか見えないかの分岐点になる。
密教では「衆生(しゅじょう)の秘密」に重きを置いている。
修行をして目を開かせることを主眼とした厳しい教えなのである。