第2章後半部分に移ろう。
現代でも「古典臨書(こてんりんしょ)」の必要性を唱える人は多いが、我流でやっている人は少なくない。
そんな時に示唆を与えてくれるのがこの部分ではないか。

我々は古典を臨書するとき、そこから何を学び取るかを意識しなければならない。
奇抜な発想だけを追い求めていると、本質にたどり着くことは難しい。
深遠な妙味を求め、構成よりも運筆の呼吸・リズム・筆鋒などの時代とともに変化しない書の本流を求めなければならない。
古の優れた人の追体験をすることこそが臨書の目的である。

臨書の目的が分からず臨書している人は、きっと臨書が嫌いになってしまうだろう。

そして口先だけの「評論家」になることを戒めている。

芸術論だけを述べる「評論家」になってはいけない。
実践がなくて高い鑑識眼を持つことなどあり得ないからだ。
理論と実践の一致は達人になってこそ得られる境地である。
書の達人たちは真剣な取り組みによって、名品を鑑賞している。

高い鑑識眼は実践によってのみ培われるということである。

写真は書論双書3「書譜」(日本習字普及協会) 2200円
$オバマ13のブログ-書論双書3