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ユダヤ問題のポイント(日本編) ― 前触れ3 ― グイド・フルベッキ
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注)以下、文中の赤字・太字はシャンティ・フーラによるものです。
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ユダヤ問題のポイント(日本編) ― 前触れ3 ― グイド・フルベッキ
フルベッキは代々改宗ユダヤ人 〜グラバー、マセソン社との連動
ウィキペディア記事「
グイド・フルベッキ」では、ユダヤ人との表記はないですが、「
日本のユダヤ人」記事ではフルベッキの名前が出ています。他の情報と併せて見ても、フルベッキは“いわゆる”ユダヤ人だったのです。
そして「
グイド・フルベッキ」記事によると、
フルベッキの家系は代々改革派キリスト教徒だったとのこと。ようは
改宗ユダヤ、クリプト・ユダヤ人の家系です。
キリスト教に偽装改宗したサタニストメシアのヤコブ・フランクの一派、つまり、本人を含めフルベッキの家系は代々フランキストだったろうと見受けられます。
外伝31などで見解を示したように、
ヤコブ・フランクはサバタイ派7代目首長であったモーゼス・メンデルスゾーン、そしてロスチャイルド初代のマイヤー・アムシェルと同盟を組み、このシリーズでは
ヴァイシャ革命とよぶ世界革命を裏から推進していました。
ヴァイシャ革命:ヴァイシャ(商人)による「王政(クシャトリア)」と、主に「カソリック教会(ヴィプラ)」への破壊攻撃
フルベッキはイエズス会の別働隊のカルヴァン派であり、
同時にロスチャイルドを頭とするサバタイ・フランキストの一員と見て取れます。
1858年にイギリス東インド会社は解散し、その所有者たちは300人委員会へと移行するのですが、
300人委員会へ移行する東インド会社の支配的地位にあったのがロスチャイルド家でもありました。既に見たように、坂本龍馬や長州ファイブなど
維新の英傑たちのバックにはグラバーとマセソン社の存在があり、彼らの支配者がロスチャイルドであったのです。
フルベッキとグラバーやマセソンなどは皆が仲間だったと見るのが当然で、フルベッキとグラバーは連動して動いていたようにも思えます。フルベッキとグラバーは、共にそれぞれが1859年に上海を経由して日本の長崎に来て居住しているのです。
フルベッキに関しては「れんだいこ」さんの「
フルベッキ考」が参考になるのです。そこでは、フルベッキは非常に頭脳優秀な人物で、来日後に彼は長崎そして佐賀で教師を勤め、「語学(英、仏、蘭、独)のほか政治、天文、科学、築城、兵事の諸学を講じている」とあります。
この多方面に通じていた
フルベッキには多くの門下生と呼ぶべき人物群が集まっていたのです。
薩長土肥の後の明治新政府での高官となる人物たちです。(この中で
特にその高弟と言えそうなのが大隈重信と副島種臣です)。
フルベッキのこれら門下生と加えて、
公家側の重要人物岩倉具視もフルベッキの弟子的な立ち位置にあったのです。ウィキペディアの
フルベッキ記事では次のようあります。
「1868年6月にフルベッキは大隈重信に、日本の近代化についての進言(ブリーフ・スケッチ)を行った。それを大隈が翻訳し、岩倉具視に見せたところ、1871年11月に欧米視察のために使節団を派遣することになった(
岩倉使節団)。直前までフルベッキが岩倉に助言を与えていた。」
新政府挙げての国家事業である岩倉使節団を主導したのはフルベッキだと言うことです。ここから見えるのは、明治新政府の高官ほぼ全てがフルベッキはの弟子的な形で関連があったことです。
(続きはこちらから)
新日本国家の骨組みづくりの指導をしたフルベッキ
明治新政府発足早々、
フルベッキは岩倉使節団を主導したのですが、
外伝51で見たように、
この岩倉使節団に副使として同行していた伊藤博文が、帰国後の1872年に「国立銀行条例」を制定しています。経済・金融の仕組みは国家の骨組みの重要部分です。ここにフルベッキの強い影響があったことは否めないでしょう。
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そしてこの経済・金融の他に国家の骨組みの重要部分としては、憲法や刑法、租税などを含む法体系の整備、そして教育がすぐに思い浮かぶと思います。さて、フルベッキ記事には次のようにあります。
「1869年(明治2年)2月13日に、フルベッキは突然明治政府より、大学設立のために江戸に出仕するように通達を受ける。(中略)...江戸では、法律の改革論議の顧問と大学の設立の仕事だった。 」
フルベッキは明治新政府お抱えの雇われ外国人政策顧問、政府ブレーンとして法律整備と大学設立を指導したということです。記事には「1868年に復興した開成学校(旧幕府開成所)の教師を務めながら、学校の整備を行い、1869年12月には大学南校と改称した(1873年には再び開成学校)」とあります。この開成学校、大学南校は後の東京帝大の前身です。
つまり、今日まで続く東京大学を頂点とする日本の教育学歴システムの原型をフルベッキが作ったとも言えるのです。
そして法体系の整備ですが、「フルベッキ考」に次のようにあります。
「1873年、政府法律顧問に就任。フルベッキの貢献の一つに日本の法律体制の確立がある。フルベッキの数多い法律体制の実績を一つだけ例として挙げるとすれば、維新政府の大事業であった地租改正がある。同改正の立法的基礎を打ち立てたのは一般に渋沢栄一と前島密の2人とされているが、その裏でフルベッキの助言があった。」
経済・金融部門、教育部門、法体系部門、こうやって見るならば、日本国家の骨組み作りはフルベッキ指導のもとに実行されたと言い得るのが分かるでしょう。大隈重信、岩倉具視、伊藤博文など明治新政府の重要人物、いやそれ以前の維新の主要メンバーもが、ことごとくフルベッキの門下生的な位置にあったのがベースとなっているのです。
フルベッキ群像写真 〜人物配置の示すもの
フルベッキといえば何かと話題になるフルベッキ群像写真です。維新の英傑たち44名がフルベッキと一枚の写真に収まっているものです。
編集者註:竹下氏のコメントより抜粋(
「時事ブログ」2013/2/26)
「少なくともこの写真に写っている勝海舟、明治天皇、西郷隆盛、坂本竜馬、睦奥宗光など幾人かはまちがいなく本人です。私の直観によるもので何度か別の方法で調べましたが結論は同じです。本物の写真です。」
これには「偽物ではないか?」「ありえない」などと疑義が出され問題とされています。私には写真が本物かの真偽を計る決定的な術はありません。しかしフルベッキを多少なり調べた現在、この写真の人物群の集合は十分ある得ると思えるようなっています。つまり本物だろうと捉えています。根拠は写真の中の人物名です。
記されている大隈重信、副島種臣、陸奥宗光、岩倉具定等は、ウィキペディアのフルベッキ記事からも門下生であるのは明瞭です。肥前の志士たちも当然フルベッキ門下生でしょう。彼らがフルベッキのもとに集合しても不思議でないです。問題はフルベッキの門下生に数えられない人物でしょう。
しかし考慮に外せない事実があります。フルベッキと連動して動いていたグラバーとマセソン社です。その繋がりから坂本龍馬や西郷隆盛、伊藤博文などの薩長土佐の志士がいること、また坂本龍馬や島津との関連から勝海舟がメンバーに入っていることも、人的な繋がりの上から不思議ではないと判断できるのです。集合できる機会が生ずれば集合して撮影されて不思議でないメンバーとなります。
さて、その機会は生じたようです。「フルベッキ考」の最後部分で「フルベッキ写真」検証の「貴重証言」は参考するに値し、写真が撮影されたのは慶長元年(1865年)の春だったことが明かされています。
そしてどこかの解説にあったのが、この写真の最重要点は「撮影される人物群の配置にあること、中央に最重要人物が配置される」とのこと。これには「なるほど」と納得した次第でした。
そこでその観点で見ると中央に位置するのはフルベッキ親子です。となると明治維新全体はフルベッキが中心になって行われると、この写真は教えます。
そして中央フルベッキの前後に位置する人物が次いでの重要人物となります。写真中央の前部の人物は明治天皇、後部は西郷隆盛と氏名が記されています。フルベッキ群像写真の最大の問題点がこの明治天皇の映り込みです。写真の示す意味では明治天皇を前に押し出す、つまり明治天皇の世を誕生させるべく西郷隆盛が中心になって倒幕に働いていくということでしょう。
さて明治天皇と記されている人物、本来明治天皇になるのは孝明天皇の息子睦人親王です。しかしこの少年、まさか睦人親王ではないでしょう。この少年こそが大室寅之助となるでしょう。
@sergio5834 1 Dec 2017
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Writer
seiryuu
・兵庫県出身在住
・いちおう浄土真宗の住職
・体癖はたぶん7-2。(自分の体癖判定が最も難しかった