フェイク 第1216号 (発行=11.06.29)


「神札坊主」に厳しい仏罰の現証
大石寺六二世・日恭の焼死に関する考察 ㊦
当時の管長代務者が語った数々の不運




 死身弘法を貫いた学会の牧口初代会長、保身のために権力に迎合して大謗法を犯した宗門坊主――どちらに日蓮大聖人の精神が脈打っているか、明らかであろう。昭和十九年十一月十八日、牧口会長は一年四カ月間の拘留の末、東京拘置所の獄舎で逝去。大聖人門下としての信念を貫いた崇高な殉教であった。

 これに対し、一宗あげて謗法に染まった日蓮正宗は翌二十年六月十七日、大石寺が紅蓮の炎に包まれ、法主・日恭は書院に祀られた神棚と共に無残にも焼死した。上半身は真っ黒焦げ、下半身は生焼け状態だったと河辺慈篤が語っていた。

 同日午後十時半頃、大坊の対面所から出火した火災は対面所、大奥(管長の寝床)、書院、客殿、六壷等を焼き尽くして十八日午前四時前、ようやく鎮火した。

 この火事で管長の日恭は「逃げ遅れて焼死」(「毎日新聞」昭和二十年六月十九日付)した。

 それは宗門側が弁解しているような「覚悟の死」とか「自決の道を選ばれた」などではなかった。

 無残な日恭の焼死について、当時の宗門高僧も「御罰でなくて何であらう」(当時、霑妙寺住職・渋田慈旭)と述べていたほどだ。

 日恭法主が逃げ遅れた理由は肥満で、足腰も弱かったためであった。堀日亨上人は、日恭について次のように書き残している。

 「(日恭は)酒は一升程も飲んでいたが、酩酊して前後不覚になることはなかった」というから、余程の大酒飲みだったようだ。

 「脂肪は摂取過ぎ」だったとのことだから、肉食を好む生臭坊主だったことが分かる。更に「運動不足の為か老年にはビヤダル(樽)式に腹部が肥満して不格好で不健全の体に見え足弱であった」「阿蘇火山に誘引せし時の先達の愚老が大に迷惑して世話のやけた事夥しかった。山登りばかりで無く、平地の歩行も予が健脚には及ばず」と。

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 日恭(写真)の最期は不運の連続であった。焼死した日恭の後を受け、一時、管長代務者を勤めた能化の中島日彰が大火から三カ月後に東京・妙光寺で語った話の記録によると、次のような不運が重なっていた。

①日恭は耳が悪くなり、上井出地区の寿命寺に逗留して、その近くにあった戦車学校の軍医に治療をうけていたが、この日に限ってわざわざ登山した

②有力信徒が登山すると連絡があり、無理を押して登山したが、その信徒は急用で来なかった

③上井出から迎えが来たが、それを断って大奥に泊まった

④大石寺には当時、朝鮮義勇軍の農工隊が駐留していたが、日本人将校は農工兵達に脱走の恐れがあるため、消火に協力させなかった

⑤日本人将校は農工兵達が脱走しないように見張りをして消火活動しなかった

⑥大石寺門前に消防車があったが故障で動かなかった

⑦駆けつけた戦車学校の消防自動車はガソリンを忘れたため役に立たなかった

⑧富士宮消防署は準備を整えたが、署長不在で出動命令が出なかった。

この不運が重なった仏罰を宗門は猛反省するべきだ。





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