話題満載 池ちゃんの『破常識』で行こう!

話題満載 池ちゃんの『破常識』で行こう!

こんにちは。このブログは、物理に数学・心理学。クラシック音楽や映画に小説・シヨート・ショート、果てはお笑いまで、色々な話題を取り上げています。新旧の無い『本』の様なブログを目指しておりますので、古い記事でもコメントをお待ちしております♪

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「貴方は月に何冊読書していますか」と、よくテレビや雑誌でやっている。

いかにも「読書しない人は語彙も少なく知的魅力に乏しい」と言いたげだ。

ならば、たまにしか本を読まない私は「ぼんくら」なのだろう。

しかし、この老眼には本の文字が辛いし、一日中仕事でのパソコンで目はショボショボ、読書どころではないのが現実。

 

ところで、この「読書」とは、何をもって「読書」と言うのか。雑誌は? 漫画は? 調べものは?

そこで「読書の定義」を調べてみると、「文学作品を読むことに限らず,自然科学・社会科学関係の本や新聞・雑誌を読んだり,何かを調べるために関係する本を読んだりすることなども含めたものである」とある。

では、レシピ本などはどうなのか。仕事で技術資料はよく開くが、これは「読書」なのか。違うよね。

 

その様なものを読んだところで、語彙力も読解力も、ましてや多様な価値観や感受性など無縁。

やはり読書とは情報のみならず、どんな形であれ「心が動かされるもの」であると思う。

それが紙の本ではなく、電子テキストでも構わない。とにかく文章・文脈から心の中でイメージが膨らみ、時にはものの考え方から価値観まで影響を受ける。それが読書というものだし、醍醐味と言える。

 

ところが今の自分はと言うと、人物や物事の歴史・解説や、気になる事を調べる「情報収集」「知識欲」の為に文章を読む事が多い。

もう既に、価値観や人生観などは、読んで影響されるより「書く側」の年齢であるし、ストーリーも与えられるより「考案する」方がずっと楽しい。

でも、それもこれも十代・二十代の読書が礎となっているのは確かだ。様々なジャンルの本に影響を与えられ、故にそれらの反芻を楽しむ事が出来る。

 

いや、別に「読書」でなくても映画やテレビからでも得られるのではないか。自身もかなり映画からも影響を受けているではないか。

では、何が違うかと言えば、やはり「想像力」だろう。

映像が無いからこそ、イメージが膨らみ、自分自身の世界を作り上げられる。

読解力や語彙力はどうだろう。

これだけは、本をたくさん読んだからと言って、知らない言葉を調べなければ語彙量は増えない。漢字もそうだ。

また、数多ある小説も、不適切な句読点や文章的におかしなものがたくさんあるから、テキストにするには怖い面もある。

 

とは言うものの、若い時に様々な本を読むことはやはり大事だし、その楽しみを知って欲しい。

他の媒体では得られない、本には本の良さがある。

「本を読んで楽しかった」という成功体験を、親は子供に与えて欲しい。

ちなみに私が子供の頃に感動したのは「世界文学全集」だった。時代を感じるなぁ。

 

<気力の話>

気力がどうにも湧いてこない。持病もあるが、歳のせいもあるのだろう。

小説も書きたいし、作曲もしたい。趣味を楽しみたいが、仕事が先だね…。

前回の話

 

思うに、遺伝子学的に捉えれば、両親共に脳卒中で倒れ、亡くなったのであるから、自分も同じ道を辿ると予想するのが理というものである。

 

もし、父のように飲む事も食べる事も出来ず、認知能力が劣って寝たきり状態になったとすれば、家族に負担はかけるだろうが、当の本人が「悩む」という事は無い、と言うより出来ない"。

しかし、頭だけはしっかりしている場合はどうか。

残された意思の疎通能力によっても違うだろうが、会話も出来ない寝たきり状態で生き残ってしまったら。

「こんな状態で中途半端に生き長らえる意味などあるものか」

いくらそう嘆こうが、この世が”尊厳死”や”安楽死”を許してくれる筈も無く、己で己を『口減らし』する事が叶わぬ現実を呪うしか無い。

 

さて、入院した場合は別として、介護となれば施設に入るか在宅かの2択となる。

自分としては、長年過ごした家で最期を迎えたい。それが正直な気持ちだ。

家族で囲んだ食卓、幼い子の髪を洗った風呂、何十年と毎日座り続けた仕事場。思い出の詰まった家。人生最後にして離れたくなどない。

しかし、自分で用を足す事すら出来なくなれば事情は変わる。下の世話など、家内でさえかろうじて頼めるレベルのものを、娘や息子の嫁に託すなど出来るものか。躊躇するにも程がある。

自尊心に羞恥心、その他の全てが崩壊し、己の不甲斐なさに押し潰されるだろう。

それだけではない。90キロを超えるこの体。入浴は訪問介護を頼るとしても、日常の着替えや体位を変えるだけでも重労働。認知症もあればなおのこと、家族に苦労はかけたくない。

 

そう考えると、理想は在宅などといった考えは戯言であり、とどのつまりは『我』でしかないではないか。施設に入るのが一番の選択というものだ。

それに、下の世話にせよ、それで報酬を得ているプロなのだと割り切れる分、こちらも遠慮なく託す事が出来る。勿論、経済的事情が許す事が前提ではあるが…。

 

 では、最悪のケースは何か…。

まず、自分の思いなど家族が知らぬまま介護状態となってしまう。

何も理解出来ない様に見えるが、表現機能が欠落しただけで、実はそうではないのだが、医者も家族もそれを知る術が無い。

家内は『自宅で過ごしたいに違いない』と思い在宅を選ぶものの、自分自身も高齢であり、精神的にも肉体的にも限界を迎える。全て思いとは違う方向に進むが何も出来ない。

 

三人の子供たちは話し合うが、二人とも施設となれば、とてもじゃないが高額で無理というもの。では、一人は施設で一人は在宅となると、今度は介護は誰がし、施設の費用をどう分けるかが問題となる。家の相続も絡めば、嫁と二人の娘がぎくしゃくしてもおかしくは無い。

親として舅として、娘や嫁に下の世話までさせるのも忍びないが、何より自分の事で揉めるのはどうにもこうにも堪えられない。


私はカフカの「変身」なのか、それとも乱歩の「芋虫」なのか。

いっそのこと、背中に林檎が刺さって衰弱するか、古井戸にポトリと落ちればどんなに楽だろう。

しかし、それが叶うのは小説の中だけである。

 

最初から読む

 

前回の話

 

私の家は自宅兼事務所で、父とは同居していた。

父は2階の自室にいるのだから、話しでも何でもいつでも出来る。そんな風に考えていたが、それは認識不足で、実際はあまり接点が無くなっていたのだ。

食事は2階の部屋に家内が運ぶし、父は一日中読書かクロスワードパズルをしているので、顔を合わせて会話する機会が殆ど無い。

 

母が亡くなると、それは一層強くなる。

息子夫婦の会話に入り込む話題も隙間も無く、仕事を引退してからは社会から隔絶され、一人でずっと部屋に籠る生活。話す相手もいない。これはまるで、カフカの「虫」ではないか、一種の拷問、今ならそう思う。

 

ある日、父は脳卒中で倒れ、最後はリハビリ病院に移った。治る見込みの無い病人が入る、死を待つだけの病院だ。

その時の父はすでに、胃ろうも使えず、点滴だけで生きている状態だった。

脳はやられ、記憶が瞬時に消え去るため、話し始めた瞬間に、今何を話そうとしていたのか忘れて言葉が止まる。つまり、会話ができない。

 

飲むことも食べることも無く、白い天井を眺める寝たきり状態。利くのは耳と目だけ。これでは乱歩の「芋虫」だ。

面会に来た家族の顔を見ると一時的ににっこり笑うが、すぐに寝るか天井をじっと見つめている。どこまで認識できているのか分からない。

 

もしかすると、父にとっては自宅の2階にいた時も、この寝たきり状態と何ら変わりがなかったのかもしれない。

いや、それどころか、寝たきりの今の方が晴れやかなのか。なぜなら、2階にいた頃の苦み走った表情が消え、優しく穏やかな笑顔になったのだから。

もし10年前、いや、20年前に戻れたなら、父の大好きなオールドパーを買って一緒に飲みたいものだ。父が育った麻布の戦前の話を聞きたい。そう思って止まない。私の大きな後悔だ。

 

カフカの「変身」、乱歩の「芋虫」。そして父。

かつては家族や国の柱であった人間が、一転して人の手を借りなければ生きられなくなってしまう現実。社会との隔絶。

もし自分がそうなってしまったら…。どうすれば良いのだろうか…。

いや、その時にはもう自分では何もできない。そんな事は分かり切っているではないか。父や母を看取ったのは、この自分なのだから。

しかし、それでも考えてしまう。考える。考える。考える。

自分は何をすべきか。

 

最終章へつづく…。

 

最初から読む

 

 

前回の話

 

自分が犬になってしまう想像から、今度はそれによって言いたいことを家族に伝えられないもどかしさに発想が飛んでしまった。

極端な話だが、次に思い出したのは、江戸川乱歩の「芋虫」である。

 

 ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

江戸川乱歩「芋虫」のあらすじ

 

男は戦地で負傷し、耳を失い手足も失い顔もつぶれ、唯一『眼』だけが残った元軍人である。

金鵄勲章が与えられ、世の中は彼を称賛した。そして、そんな夫をかいがいしく世話をし、筆談によって夫と会話する妻もまた世間は称賛するが、世間はすぐに二人のことなど忘れ去ってしまう。

身動き出来ず、獣のように食事と妻を求める夫。そして、夫をいたぶり快感を得る妻。

いつしかそれはエスカレートし、ついには夫の唯一の外界との接点である『眼』を、指でつぶしてしまうのであった。

我に返った妻は医者を呼び、食事もせずに看病をし、夫の体に何度も「ユルシテ」と書くものの、反応することは無かった。

その夜、犯した罪を懺悔すべく、家主であり夫の元上司を訪ね、二人が家に戻ると、そこには夫の姿が無く、枕もとの柱に何か書かれているのに気がついた。

「ユルス」

夫は自殺する気なのだ。そう気づいた妻は元上司と古井戸に向かうと、雑草の中をもぞもぞ動く物体が、井戸の中にボチャンと音を立てて落ちるを見た。それはまるで芋虫の様であった。

 

 ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 

乱歩自身は「苦痛と快楽と惨劇を書きたかった」と言っているが、読んだ当時はやはり反戦主義を感じざるを得なかった。

しかし、あれから数十年、親を介護し看取った今は、まったく別の意味を読み取るのである。

例えば、介護する側、される側の心の光と闇。身動きできない体と伝えられない意思。そして尊厳死、安楽死までも。

つづく…。

ある夜、一緒に寝ころんでいたトイプードルの前足をつくづく眺めていると、ふとこんな思いが頭をよぎった。

『もし、目が覚めた時に自分の足がこんなだったらどうするだろう』

『はじめは驚くものの、だんだんと慣れてきて、それが当たり前になるのだろうか』

妙な事を考えたものだが、それには思い当たる節があった。それは、数日前にNHKで放送された100分deで名著で、フランツ・カフカの「変身」を観たからである。

大分前に同番組でこの本を扱った記憶があるから、多分再放送なのだろう。いずれにしても、短い話ではあるが、深いテーマで印象深く、考えさせられる好きな話だ。

 

 ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

フランツ・カフカ「変身」のあらすじ

 

ある朝、両親と妹を養っている青年が目覚めると、自分が巨大な毒虫に変身しているのに気が付いた。

声も出なければ、体もまともに動かない。

ただ壁や天井を這い回るだけだったが、徐々に虫でいる事にも慣れ、窓から外を眺める生活となった。

妹は、兄の好きな食べ物を運び、部屋の中を掃除するなど世話をしていたが、次第にそれを怠るようになる。

母親は息子の姿を見て気を失い、父親はリンゴを彼に投げつけ、それが背中に刺さって体を動かせなくなり、衰弱して行った。

稼ぎ手を失った家族三人は、部屋を間貸しして働きに出たが、下宿人が彼に気づいてしまい、邪魔になった彼を処分する事を考え始める。

衰弱が進み、ついに彼が息を引き取ると、家族たちは神に感謝し、「娘に良い結婚相手を探してあげよう」、そう思うのであった。

 

 ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 

もちろん、この話は人が虫に変身した面白さを描いているのではなく、家父長制度が強い19世紀末、主人公が家庭の中で孤立し、邪魔者扱いされて行く事の隠喩・アレゴリーであり、「虫とは何か」の解釈も読み手の数だけあると言って良いだろう。

 

話が長くなったが、とにかく「ある朝自分の体が犬になった」ことを想像し、その後どうなって行くのかを考えてしまったのだ。

つづく…。

私も還暦から2年近く経つものの、相変わらず何かにつけて調べなければ気が済まない。

ちなみに、2018年に最も衝撃的だったニュースは、

「衝撃の事実我々はネアンデルタール人の子孫である」

であり、人類の歴史に取り組んだ。

 

それから、ライフワークである音楽史や、昨年のショパンコンクールと一緒に、「ポーランドの歴史」もおさらいした。

また、小室氏・眞子氏、女系・女性天皇問題から、古事記や天皇の歴史を総ざらい。特に、正統性の問題があるからだろうか、テレビでも学校でも丁寧に教えない「南北朝」は、殊更詳しく調べた。

そして現在は、やはりウクライナとロシアだ。この2国はどんな歴史を歩んで来たのか。

ポーランドにせよ、ウクライナにせよロシアにせよ、ヨーロッパの国の歴史を紐解こうとすると、9世紀頃、さらには古代ローマ帝国の時代まで遡なければ見えてこないものがある。その目まぐるしい変動は、調べる者に覚悟を要求する。

 

それにしても皮肉なもので、ウクライナ(かつてのキーウ⦅キエフ⦆大公国)は15世紀にポーランド・リトアニア共和国に取り込まれ、そのポーランドも何度となく分割・消滅させられ、そして実質的に両国ともソ連に制圧されてしまった。

その後、独立したものの、またもやロシアによって武力侵略を受けている。今はもう21世紀だというのに。信じられない。

 

テレビの話では、2019年から放送が続いていた「関口宏のもう一度!近現代史(BS-TBS)」が先日終了した。

明治維新から太平洋戦争終結、GHQの占領を経て独立までを、作家・保坂正康氏が詳しく解説してくれたのだが、その知識の豊富さには舌を巻いた。余分な贅肉など1ミリも無い内容で、もう一生分の知識を頂いたと言っても過言ではない。

そして、先日から始まったのが「関口宏の一番新しい古代史」。

よりによって古代史とは!!! とは思ったが、縄文時代から弥生時代を無理に引っ張らずにサラリと通り抜けてくれたし、何より編集工学研究所松岡正剛所長、明治大学吉村武彦名誉教授の解説がこれまたすこぶる面白い。松岡氏に至っては、開口一番に言い放ったのが「よくもまあ、古代史などやる気になりましたね」である。

 

正直な話、司会の関口宏氏は何においても他人事で好きになれないのだが、前番組や本番組においては、パートナーの解説の邪魔にならず、逆に有難い。

ややもすると、この手の知識番組は、司会者の半端な知識の披露や的外れな質問に辟易することが多く、こうした素晴らしい解説に集中できるのは嬉しいことこの上ない。

 

いずれにせよ、かつては図書館から毎週7~8冊の本を借りていたが、今はそれ以上の情報をネットで集め、異なる意見や文献を並べる事が出来る。

広辞苑にしても古びることが無く、それどころか、大辞林や様々な辞書の最新版を自宅に居ながら覗くことができる。

有難い世の中になったものだ。

 

 

 

 

 

昨年(2019)は、8月に家内が歩行中に、12月には娘の乗る自転車に車が突っ込み、散々な年でした。
「厄払いした方が良いのでは?」とも言われましたが、そう言えば昨年は数え年での「前厄」、信じる人からすれば「やはりね…」というところなのでしょう。

 この「厄年」なるのもの、体に変化が訪れる生体的なものという説もありますが、加齢速度など人それぞれであろうし、第一『外的現象』とは無関係のはず。悪運まで引き込むと言うのであれば、それはもう占いと変わりがありません。

そもそも厄年の起源は奈良時代で、庶民の間で流行り始めたのが江戸時代と言われます。そして陰陽道に通じているとか。

ここまで来ると、関わらないのが一番です。触らぬ神に祟り無し!
というわけで、我が家の神棚は処分する事となりました。

とは言うものの、別に神仏を粗末にするわけではありませんよ。ただ、神棚が無くなるだけの話です。
中には、とやかく言いたがる方もいますが、聞けば日々の感謝やお礼ではなく、やれ「宝くじが当たりますように」であるとか、私利私欲の願望、お願い、いや要求ばかりのご様子。
とても立派な神棚に熱心に手を合わせておられる様ですが、果たして御利益があるのでしょうかね…。

形より心。
誰も見ていなくても、お天道様は全てお見通しだ!
むむむ? こ、これでは太陽神?

 

我が家の風呂はガス給湯器。
もう交換しましたが、随分長い間頑張ってくれました。15年も経てば大半の給湯器が寿命を迎えていますから大した者。

しかし、それだけ使っているからこその弊害もある。
新しくお湯を張った時には臭わないものの、追い炊きして循環させると途端に臭い出し、次の日は凄い臭いが風呂場に立ちこめるのだ。

これは給湯器の中に細かい凹凸があり、そこに長年の汚れが溜まってしまうため。だから新しいウチは目立たない。
2つ穴のバランス釜なら手入れも簡単だが、1つ穴式は始末が悪い。
「ジャバ」であるとか色々試してみたが、どれも今ひとつ効果が薄い。

クエン酸、重曹、分量を変えては試すの繰り返し。
何となく効いているようでも「これだ!」とまでは行かなかったのだが、ついに先日「これぞ決定版!」と言える配合を見つけた。
これはアップするしかない!!!

重曹2:クエン酸1:片栗粉1(無くても良い)

これを浴槽に入れるだけ。勿論お湯はそのまま使います。

分量はお湯の量にもよるので一概に言えないが、「分量1」を大さじ1~2杯程度で試してみることをお勧めする。
もちろん2つ穴のバランス釜でも、まだ臭いが目立たない程度でも構わない。
定期的にこれを繰り返すことで、高い「風呂釜洗浄剤」など買うことも無くなるのだろう。

 

まず、湯を溜めたらすぐに入れてしまいます。入れたお湯に体を沈め、そのお湯を循環させるからこそ効果が発揮されます。

お風呂の汚れは、体から出てくる脂とタンパク質、脂には重曹、タンパク質にはクエン酸が効き、重曹やクエン酸には「美肌効果」「加齢臭予防」「リラックス」「フケ防止」「殺菌」など様々な効果があります。その上、お湯の雑菌繁殖も抑えられるので、残り湯洗濯に使う場合も効果大です。

これらは混ぜてもバラバでも構いません。
ウチの場合、毎回3つバラバラに出すのは面倒なので、サランラップに1回分の分量を包んで丸めた物を沢山用意しています。
でも「重曹」に「クエン酸」? どこで買うの? 余っても困るし・・・というあなた。
この二つさえあれば、普段の掃除はこれだけで充分。何と言っても安全で効果の高い「万能洗剤」なので、今まで洗剤メーカーに貢いできた事がバカらしくなるほど♪

 

ちなみに「重曹」ですが、「炭酸ナトリウム」と「炭酸ソーダ」があります。
炭酸ソーダの方が安いのですが、「炭酸ナトリウム」でなければなりません。
御注意ください。(炭酸ソーダは「お風呂には使えません」と書いてある物もあります)

注)私は男です。そして主夫でもありません。

 


※この記事は、ブログ移転に伴い引っ越しさせたものを、整理して再アップしたものです。

我が家の庭には紫蘇が植えられており、どんどん増えるので葉と実を取って塩漬けにます。これが美味しいこと美味しいこと。

他に何もおかずが無くても御飯が何杯でも行けます。





紫蘇の実は貴重なおかず。お昼はこれを御飯に乗せ、「茶漬け」にせずとも「湯漬け」充分美味しくいただけます。
晩も基本的にこれをつまみ、ついでに他のおかずを食べる。何と経済的なことか。
おにぎりの具も当然紫蘇の実。
海苔の代わりにおにぎりに紫蘇の葉の塩漬けも巻くのですが、具が紫蘇の実だとキャラが被るのがちょっと難点。美味しいですけど。

調べてみると、この紫蘇の薬効・効用が素晴らしい。
ビタミン・ミネラルが豊富でダイエット効果があるとか。おまけにアレルギーとガンの抑制に精神安定作用もあるというのだから、これを食べないテはありませんね。

 

 

※この記事は、ブログ移転に伴い引っ越しさせたものを、整理して再アップしたものです。

いよいよ梅雨が明け、猛暑全開となりましたね。

この暑い夏が一年中で最も食中毒の多い季節と思いがちですが、実は梅雨時が一番多いのだそうです。

今回は「食べ物の菌」について書いてみましょう。

 

よく、TVで納豆の事を「糸ひいてるやないか。あんな腐ったモン喰えるか」と言う無知な関西芸人がいます。
納豆好きをバカにしているようで不快ですし、それ以前に自分の知識の浅さを広めているようなものなのですが、意に介しません。それとも、それが芸風なのでしょうか…。

御存知の通り、納豆が納豆である由縁は「納豆菌」のお陰。糸を引くからと言って「腐っている」わけではありません。

さすがに『乳酸菌』の認知度が高い現代で「そやけど"菌"は"菌"やろ」とは言わないでしょうが…。

また、良く聞く話しに「牛肉は腐りがけが美味しい」というのがありますが、あれは一定の温度で熟成させている。つまり、時間をかけてタンパク質をアミノ酸に分解させているのであって、決して腐らせているわけではありません。
カビ系チーズも熟成の産物。「熟成」と「腐敗」を一緒にしてはいけませんよ。

最も恐ろしい誤解は、「少し痛んだ(腐敗した)煮物も、火に掛ければ菌が死ぬから大丈夫」という神話? です。
そもそも腐る原因は「腐敗菌」のせいなのですが、この菌はいくら火を通そうが、熱では死にません。
つまり、煮物であろうが何であろうが、食品に腐敗菌が繁殖したらもう終わりなのです。

くれぐれも「腐敗した食べ物」を口にしないように心がけましょう。

ところで、字面で考えると「豆が腐る」で「豆腐」、「納める(容器に)豆」で「納豆」と、納豆と豆腐の名前は全く逆のように感じるかも知れませんが、もともと「豆腐」の原型は大陸から入って来た「腐乳」を固めたもので、これを日本人が入手しやすい「豆」に原料を換えたことから「豆腐」と呼ばれたのです。
そした、かつて納豆は「納所」という部屋で作られました。だから『納豆』と呼ばれたと言います。
この他にも諸説あるようですが、私はこの説が一番好きですね。

最後に、言い忘れましたが「私は納豆が大好き」です。
最近は臭いがしない納豆も売られているようですが、少しは臭いが無いと物足りません。
ところで、納豆のあの臭いは何だと思います?
「アンモニア臭」なんですって・・・(笑)。
あっ、ますます納豆が嫌いになりました?

 

※この記事は、ブログ移転に伴い引っ越しさせたものを、整理して再アップしたものです。