染井さんぽ/曹洞宗泰宗寺の陸奥白河阿部家女性墓
慶長年間、摂津三田九鬼守隆の開基で江戸茅場町に創建、寛永十(1633)年下谷稲荷町に移転(広徳寺並び)、焼失後の明治41年に当地に移ってきた曹洞宗泰宗寺は家康次男結城秀康五男松平直基が時の住職文鷲と法縁深くなった関係から上野前橋17万石松平(越前系)家36霊を合祀した「松平家之墓」があるが、寺から少々離れた場所にある墓地入口に纏まった数基の墓碑がある。五輪塔(加藤重朝)は直接関係はなく、後ろの宝篋印塔5基は陸奥白河10万石阿部家の女性墓だ。
五輪塔の右側が
「光聚院殿玉岫宝称大姉/承応二」は藩祖阿部忠秋室で松本の松平(戸田)康長娘
左側に見えるが実際は真後ろの
「仙壽院殿鳳林恵椿大姉」は四代正喬室で彦根の井伊直興娘、光聚院の真後ろは
「香雲院殿天蔭宗性大禅定尼」は三代正武室で彦根井伊直澄養女、仙壽院の後ろは
「荷香院殿清室英董大姉/享保十五」で正喬三男正直の室は広島浅野吉長の娘誠姫である。
香雲院の後ろは
「艶陽院殿」…この方にについては後述する。
'16お江戸の真相(2)-②金さんこぼれ話
天保十二年老中水野忠邦の「天保の改革」が断行された。
忠邦の改革は町人階級には生活統制の形で強行され衣食住の全てにわたり華美なるものの排除が指示され、庶民の娯楽の隅々まで干渉した。
南町奉行の鳥居耀蔵(甲斐守忠耀)は、改革令に違反する者を徹底的に取締り、庶民の苦痛も意に介さず次々と細かい統制を打ち出したが、世情に通じる遠山は、江戸庶民を不安にさせるこうしたやり方に反対し、ことごとに鳥居と対立した。
この為、天保十四年二月町奉行を免ぜられ大目付に転じた(大目付の方が格上だが当時は閑職)。
しかし天保の改革が失敗して水野・鳥居らが退くと、弘化二年三月に南町奉行として復活、52歳の時だ。
こののち幕政を担った老中阿部正弘にも重用され嘉永五年まで丸八年にわたり勤役したが、病を得て翌年隠居し、子の金四郎景纂に七代目を継がせ剃髪して帰雲と号して悠々自適の生活を送った。
二度の町奉行生活は延べ11年となる。
安政二年二月二十九日病を得てこの世を去った。
墓碑正面・右に
「帰雲院殿前左金吾校尉松僊日亨大居士/安政二」
左に
「偕寿院殿洪妙慧日熙大姉/嘉永七」
右側面に
「敦行院殿誠信景纂日勇大居士/安政五」(七代目金四郎景纂)
「得寿院殿妙行日成大姉/曽我氏娘」とあり親子夫婦合祀のようだ。
父景普はこの景元墓碑の真裏に
「静定院殿従五位下前左金吾校尉光善楽土大居士/天保八/従五位下前左衛門尉遠山景普之墓」とある。
おとっつあん86歳の長生きだったんだねぇ~
この遠山家墓所は全10基と景元建立の「遠山氏先祖塋之碑」がある。
(金さん墓の横・自然石)
一部記事内容は2011.11.9ブログ内容を再構成。
先ずは、今日の映画は昭和の歌姫・国民的大スターだった美空ひばりとの共演♪
記事内敬称略
豊島区巣鴨本妙寺内にある遠山一族墓所の金さん墓。
忠邦の改革は町人階級には生活統制の形で強行され衣食住の全てにわたり華美なるものの排除が指示され、庶民の娯楽の隅々まで干渉した。
南町奉行の鳥居耀蔵(甲斐守忠耀)は、改革令に違反する者を徹底的に取締り、庶民の苦痛も意に介さず次々と細かい統制を打ち出したが、世情に通じる遠山は、江戸庶民を不安にさせるこうしたやり方に反対し、ことごとに鳥居と対立した。
この為、天保十四年二月町奉行を免ぜられ大目付に転じた(大目付の方が格上だが当時は閑職)。
しかし天保の改革が失敗して水野・鳥居らが退くと、弘化二年三月に南町奉行として復活、52歳の時だ。
こののち幕政を担った老中阿部正弘にも重用され嘉永五年まで丸八年にわたり勤役したが、病を得て翌年隠居し、子の金四郎景纂に七代目を継がせ剃髪して帰雲と号して悠々自適の生活を送った。
二度の町奉行生活は延べ11年となる。
安政二年二月二十九日病を得てこの世を去った。
墓碑正面・右に
「帰雲院殿前左金吾校尉松僊日亨大居士/安政二」
左に
「偕寿院殿洪妙慧日熙大姉/嘉永七」
右側面に
「敦行院殿誠信景纂日勇大居士/安政五」(七代目金四郎景纂)
「得寿院殿妙行日成大姉/曽我氏娘」とあり親子夫婦合祀のようだ。
父景普はこの景元墓碑の真裏に
「静定院殿従五位下前左金吾校尉光善楽土大居士/天保八/従五位下前左衛門尉遠山景普之墓」とある。
おとっつあん86歳の長生きだったんだねぇ~
この遠山家墓所は全10基と景元建立の「遠山氏先祖塋之碑」がある。
(金さん墓の横・自然石)
一部記事内容は2011.11.9ブログ内容を再構成。
先ずは、今日の映画は昭和の歌姫・国民的大スターだった美空ひばりとの共演♪
記事内敬称略
豊島区巣鴨本妙寺内にある遠山一族墓所の金さん墓。
'16お江戸の真相(2)名奉行遠山の金さん①
【遠山景元】
寛政五年~安政二年(1793-1855)
江戸時代、江戸町奉行を勤めた者は96名(再任を含め)を数えるが、江戸の町民から最も恐れられ嫌われたのが鳥居耀蔵であり、一方、江戸庶民の味方、弱いものの味方の町奉行として今なお語り伝えられているのが金さんこと遠山左衛門尉景元だ
父は長崎奉行を務めた五百石旗本遠山家第五代左衛門尉景普(永井筑前守直令の四男)母は旗本榊原忠寛の娘。妻は百人組頭を務めた4200石の高禄旗本堀田伊勢守一知の妹。
幼名は通之進、12歳の時に元服して金四郎景元となった。
遠山家は複雑で、父景普が明知遠山氏分家500石旗本遠山景好の養子になったのちに景好に実子景善が生まれた為、景善が景普の養子となり、更に景元が景善の養子になった。つまり父は祖父でもあるのだ。ただ景善は部屋住のまま没したので景元が嫡孫承祖の形で遠山家を相続したのだが、すでに37歳になっていた。
32歳の時に将軍家斉に御目見、36歳で御小納戸、翌年父の隠居で家督相続。御膳番を経て39歳で西の丸御小納戸頭取格となり従五位下大隅守に叙任、42歳で小普請奉行、翌年左衛門尉となり、さらに作事奉行・勘定奉行を経て天保十一(1840)年江戸北町奉行となったのが47歳。エラくゆっくり目で就任した。
決して町人姿に身をやつして走り回る年令ではない
この金さんのが
今日と8日の日曜日に時代劇専門ChでOAされる。
むかし(笑)よくやっていた深夜の時代劇映画で観た事があるが、の中村梅之助・杉良太郎・里見浩太郎・松方弘樹バージョンより格段上の出来映え
そりゃそうだ映画版金さんは当時の東映重役俳優片岡千恵蔵御大の当り役だったからだ!