'14お江戸の真相/人物編☆脇坂安董 | 七面堂九齊のしちめんどくさい話★とんだりはねたり

'14お江戸の真相/人物編☆脇坂安董

谷中延命院事件を裁いた脇坂安董は播磨龍野(兵庫県たつの市龍野町)五万一千八百九十石の第八代藩主(脇坂家十代)。

【脇坂安董】
明和四丁亥年~天保十二辛丑年
(1767-1841)
同腹兄の近江守安教の早世をうけて、父淡路守安親の跡を継ぎ八代(脇坂氏10代)藩主となる。
従五位下淡路守に叙任し、のち中務大輔、また従四位下侍従に叙される。

賤ヶ岳七本槍の一人・脇坂中務少輔安治を初代とする外様大名だったが、二代淡路守安元(信州飯田)が下総佐倉の老中堀田加賀守正盛の次男三四郎を養嗣子としたことから…(因みに母は若狭小浜・酒井讃岐守忠勝娘・衛姫で三男はのちに大老となる堀田正俊)
『願譜代』(便宜上「準譜代」)として待遇されるようになり、安董が寺社奉行・老中という幕府要職についてからは完全な譜代扱いになり、子の安宅(やすおり)も寺社奉行・京都所司代・老中を歴任している。

中務大輔安董は、寛政三年に寺社奉行となり、延命院事件を手がけて一気に名を馳せ、一時失脚したが、16年後に将軍家斉お声がかりで寺社奉行に復帰。

当時の落首に

「また出たと坊主びっくり貂の皮」

と謳われたにひひ

貂(てん)の皮の意味は脇坂家の大名行列の先頭の奴さんが持つ槍の先の刃部分を覆う袋が貂の皮だったからだ(笑)。

延命院事件の他に家斉お声がかりで「三等惑乱(仙石騒動)」をも担当し、遂に老中まで昇り詰めた。

安董は明治42(1909)年に北青山から中野区上高田に移転した曹洞宗曹渓山青原寺(太田道灌の師・雲園舜徳禅師の開創で万治三年〔1660〕青山信濃守が中興開基)の境内墓地中央の脇坂家定紋「輪違い」を配した大きな唐破風石塔の
『子爵脇坂家累代家族之墓』
と刻まれた墓碑六十三霊と共に永遠の眠りについている。

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