七色の顔を持つ男・朋誠堂喜三二 | 七面堂九齊のしちめんどくさい話★とんだりはねたり

七色の顔を持つ男・朋誠堂喜三二

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【朋誠堂喜三二】

享保丁酉二年~文化癸酉十年
(1735-1813)77歳没。
本名、平沢常富(ひらさわつねまさ)
称は平角のち平荷。
旗本佐藤三四郎家中西村平六久義の第三子として誕生。寛延元年14歳の時に、父の姪が嫁した出羽秋田佐竹侯家中平沢常房の養子になり、天明元年(1781)からは 藩の御城使(留守居)高120石として敏腕をふるうかたわら、手柄岡持で狂歌を詠み、青本作者としては亀山人と称し、洒落本作者としては道陀楼麻阿(どうだろうまあ)、浅黄裏成。俳諧では雨後庵月成、漢詩では韓長齢といくつものペンネームを使い分ける。

著作本
狂歌狂文の家集『我於茂(われおも)しろ』
黄表紙は『親敵討腹鞁』の他『桃太郎後日噺』『鼻峰高慢男』『鐘入七人化粧』『長生見度記』など。

春町が咎められた本『鸚鵡返文武二道』の元となった本『文武二道万石通(ぶんぶふたみちまんごくどおし)』(松平定信の文武奨励令に物申した内容)を発表した天明八(1788)年に秋田侯・佐竹右京大夫侍従義和から叱責を受け江戸文人界から引退したが、その後も御城使として腕を奮った。

日蓮宗の大寺・深川浄心寺中一乗院葬。

「法性院月成日明居士」

現在は江東区三好1の一乗院から少し離れた平野信号近くにある周辺の元浄心寺子院の墓地が集まっている場所の一角にある「一乗院墓地」の最奥に合祀墓『平澤氏累代之墓』として現存している。