黄昏に語りて 〜天野滋さんの詩にのせて〜

黄昏に語りて 〜天野滋さんの詩にのせて〜

 
天野滋さんのどこまでも優しく温かい詩をこよなく愛する
人生の秋を迎えた一人の男のつぶやきです。

 皆様お元気ですか。ポストコロナも二年目となり、周りには子ども達の笑顔が溢れるようになりました。そして毎年必ず、この日がやってきます。コロナ禍に親を亡くして自分も天野さんが亡くなった年齢を遥かに越えてしまった私ですが、なぜか最近繰り返し頭に浮かんできて心に渦巻いている曲を、今日はご紹介したいと思います。NSPの隆盛期に出された大好きなアルバム「風の旋律」に収められ、かの名曲「面影橋」のB面(昭和の表現ですが)にもなっている素敵な曲です。

 

   思い出それはあの日に 君と別れてから始まった

   思い出それはドラマさ 心がスクリーンさ

   全てが同じ景色の中に 静かに息づいている

   全てが同じだけれど 君の姿がそこにない

 

 思い出が「君と別れてから始まった」という表現が心に残ります。幸せの中にいる時には幸せがわからない、青春真っただ中にいる時にはそれを青春だと意識しない、悔恨とは誰もが必ず後になってから感じてしまうものであることをさりげなく表現しているように思うからです。どんな素敵な出来事も幸せな日々も必ず過去となり、思い出になってしまいます。君を失って過去となったドラマを、君の姿がそこにない辛い思い出を、天野さんは切々と歌っていきます。

 

   思い出それは心に根を張り 枝を広げてく

   思い出それは傷跡 悲しみしか残さない

   全てが絡みあってる 長い長い長い物語

 

 人は不幸に直面して思い出をたどっていくと、必ず色々な場面に思いあたります。あそこでこうしていれば、あそこであんなことを言わなければ、どこまでも絡む長い長いドラマが悲しみの思い出として根をはっていくのです。そうすると「思い出」とは、もう取り返すことのできない過去をひたすら憂いながら傷跡を痛め続ける、そんな残酷なものなのでしょうか。

 

   君の姿がそこにない 僕の影だけ 他にない

 

 今私にとってかけがえのないものは子ども、もちろん大人になった今もかわいくて時々合う時には本当に幸せを感じます。それでも小さな頃の写真を見ると、もうこの頃の娘や息子はいないんだという寂寥感を感じてしまうことがあります。でも思い出は消えません。写真ではない、小さな頃の子どもと過ごした幸せな映像はいつまでも消えることなく、いつでもどこでも心の中で再生できるのです。

 思い出はドラマです。でもきっとそれは悲しいドラマではなく、紛れもない自分の人生の一頁を彩った幸せなドラマに溢れているはずです。悲しい思い出を歌った天野さんが亡くなる前に見ていた心のスクリーンには、三人で歌っている幸せなシーンが溢れていたことを、今はただ祈るばかりです。

 

 

天野滋さんの命日を偲んで。

DANKOROさん、お借りしました。ありがとうございます。

 皆様お変わりありませんでしょうか。新型コロナウイルス感染症の扱いが変わったことで、三年以上に渡って続いていた自粛三昧の日々から、皆様の生活も長く待ち望んでいた「当たり前の生活」に戻ってきているのではないでしょうか。そんな毎日の中、天野さんの命日であるこの日にふと心の中に思い起こされたとても優しく懐かしさを感じる曲をご紹介致します。NSPの円熟期をまさに彩ったアルバム「彩雲」に収められた、ファンの人気も根強い名曲です。

 

   さんざん歩き回り やっと見つけた店は 言葉さえ飲み込んで 君を黙らせる

   思い出が溶け込んだ 夕暮れの街の音 こうして別々の 時間を作る

 

 ゆっくりと流れていく時間に身をゆだねながら夕暮れの景色を眺める。こんな贅沢な時間がいつから失われてしまったのかと思うことが時々あります。少なくとも私が子どもの頃はそんな時間が確かにあった、またその幸せを感じる気持ちのゆとりがあったということでもあるのでしょうね。そんな遠い昔を思うたびにいつも、今の子ども達のことを考えてしまいます。この子達が大人になった時は、今のこの日々が思い出になるのです。少しでも温かな思い出として残って欲しいと、ただ願うばかりです。

 

   話し相手のない手持ちぶさたが もの思いに更けさせて

   いつのまにか僕は 目の前にいる 君を忘れてた

 

 一見なにか彼女をないがしろにした冷たい様子にも見えそうですね。でも人の脳の中にははっきりと何かを意識している時ではなく何も考えずボーッとしている時だけ働くネットワークがあり、その時間が実は、人がとてもリラックスして新しいことに気づけるための大切な時間でもあるのです。きっとこの二人はそんな時間をも許し合えるような素敵な関係なのだと、そう自然に思えてしまいます。

 

   話し相手のない手持ちぶさたが ふたりにとって良くないと

   いつのまにか君も わかり始めて 僕を思い出す

   いつのまにか僕も わかり始めて 君を思い出す

 

 お互い物思いにふけって相手のことを忘れてしまっていた時間は、いつも当たり前に目の前にいた愛しい相手への気持ちを思い出す機会を与えてくれました。きっと二人には、これまで関係が近すぎて気づけなかったこと、知らないうちに大事な何かを失いかけていたこと、そんなことをしっかりと感じることができた、とても心温まる夕暮れの一時だったことでしょう。

 この三年間、我々は人との直接的な繋がりを制限されるというこれまでに類を見ない理不尽な思いをさせられてきましたが、そんな辛い距離感の中でこそ思い至ることができた大切なこともきっとあったに違いありません。天野さんの優しい声に重なりチックタックとゆるやかに刻み続けるこの曲の心地よいリズム感が、これまでの長く苦しかった毎日を魔法のようにサラリと流して前を向く力を与えてくれる、今心からそう感じられるのです。

 

 

天野滋さんの命日を偲んで。

皆さまのブログを拝見することすら出来ていない現状を心苦しく思っております。いつも皆さまの輪に加わりたく、また自分のブログももう少し頑張って更新したいと思ってはいるのですが。

 

 

 どんなに心を亡くしてしまうような毎日が続いていても、やはりこの日は心を鎮めてNSPの曲に浸りたくなってしまいます。昨年秋、またもやNSPファンにとって本当に辛く悲しいニュースが耳に入り、しばらくは中村さんの優しい笑顔が頭から離れませんでした。今日この日は天野さんと中村さんの合作による名曲を、皆さんと一緒に聴くことができれば嬉しく思います。

 

   久しぶりだね こんな良いお天気は ずっと前から待っていた こんな日を

   君と歩こうよ 歩調を合わせてさ

 

 何も贅沢なことを求めているわけではありません。ただ日向の明るい道を君と肩を並べ、歩調を合わせて歩く。ただこれだけの幸せを本当に長く待っていたという思いが伝わってきます。

 「久しぶりだね」とつぶやくこの詩、今我々がようやく少しずつ感じられてきた希望と重なるように思いました。子ども達の世界では運動会や遠足が行われ、家族でお出かけもできるようになってきた、まさにこんな日をずっと前から待っていました。長い間失われていて初めてわかった普通の日々の大切さを、我々はこれから決して忘れることはないでしょう。

 

   お日様に叱られるから 出てこない ザラザラ砂まじりの 風さんに挨拶を

   ねえ そんな日でしょう 今日は

 

 北風は力ずくで旅人のコートを脱がそうとしますが決してうまく行きません。そこに太陽が出てきて温かく照らすことにより、旅人は気持ちよさそうにコートを脱ぐのでした。こんな懐かしい話が頭に浮かんでくるこの詩、そして悪者の立場となっている風さんにも優しく挨拶をするような日ですよと、そう天野さんは語りかけます。力ずくで物を奪おうとする愚かな行為が続けられている世の中に、本当に大切なことは思いやりの心を隔てなく与えることではないのかと、そう語りかけているように思うのです。せっかく命ある者が、何をしているのかと。

 

   10人も孫のいるような おばあさんに 通りすがりの おばあさんに挨拶を   

   ねえ そんな日でしょう 今日は 今日は

 

 今年の春まで放送されていた朝ドラの「カムカムエブリバディ」、とても楽しく拝見しておりました。その物語の中で三世代の女性の思いを繋いだ「日向の道で」という名曲。好きな国へ自由に行き、好きな国の曲を自由に聴ける、そんな日向の道を子ども達には歩いて欲しいという素敵な願いがこの物語のモチーフでした。今確かに我々は大変な日々を過ごしています。でも下を向き、後ろを向いてばかりでは日のあたる場所など決して見つかりません。子ども達の歩む日向の道は、我々大人達が笑顔で照らしてあげるその先に開けて行くのです。通りすがりのおばあさんにも明るく挨拶のできる、そんな日の先に開けて行くのです。

 

 

 全く更新もできず、皆様のブログにおじゃまもできず、心苦しく思っています。ただただ嫌な今の世の中を、気持ちを強くして前に進みたいとあがく毎日です。

 

 

 

 

 

 

  

   ご無沙汰しておりました。長い間お休みしていたブログですが、もしまだ覚えていて下さる方がおられたならとても幸せに思います。本当に辛い日々でした。いや、今も。でも毎日辛い思いで過ごしていることは、今世界中の人々に共通のことなのですから、個人的な愚痴を語るような真似をしてはいけませんよね。久しぶりのブログ、天野さんを偲ぶ今日この日に取り上げさせていただくのは、名盤「八月の空へ翔べ」の中でも一段とファンの人気の高い名曲です。

 

   誰かが落とした悲しみを 拾うことなどないだろう

   お前が女であることは 俺の隣で泣けばすむ

 

 本当に詩的な表現です。誰もがいくつもの悲しみを背負い、抱えきれずにこぼれ落としながら生きている。一緒に抱えてあげられれば、少しの優しさで拾ってあげられるなら、この一年は皆さんがそんな思いを持ちながらもできない辛い日々を送ってきたのではないでしょうか。

 

   小さい時なら良かったと 淋しいことを言わないで

   母さんの袖につかまって 後ろついていくだけなんて

 

 きっと愛する人の口から聞かされる言葉としてこれほど辛いものはないかもしれません。誰かを頼りたいとすがるような弱さを見せられながらも、その頼られる人は自分ではない。目の前で「昔は良かったのに」と言われてしまう淋しさは、その人を愛していればいるほど強くなることでしょう。でも今その女性にとって本当に心の支えになれるのは、実は一番近くにいる自分なのです。幼い頃の母の代わりにはなれなくても、それはとても幸せなことと感じます。

 

   きっと幸せの中にいて 幸せがわからない

   俺の指にからまわりする おまえの指がからまわりする

   俺の指にからまわりする おまえの心がからまわりする

 

 この一行目のフレーズがいつまでも心に残ります。「幸せ感じ上手」という、以前お話しました故・日高晤郎さんがよく口にされていた大好きな言葉が思い起こされるのです。そして私はこの一年、忙しさを理由にまさに「心を亡くし」、自分にとって何が幸せなのかを考えることもできなかったような気がしています。確かに日々の生活は厳しくても心を支えてくれる人がいる、守りたいと思う人がいる、その人々の笑顔がある、これ以上に望むこととは何でしょう。

 互いに求めるものが増えすぎると、いつしかお互いの心はからまわりしてしまいます。天野さんはこのせつない曲の中でただ悲しさや淋しさを表現したかったのではなく、人は誰しも実は幸せの中にいて、信じ合うことでそれは必ず感じることが出来る、そう伝えたかったのだと、私は今日この日にこそ究極の「幸せ感じ上手」となり、そう信じたいと思うのです。

 

 

一日遅れになってしまいましたが、天野滋さんの命日を偲んで。

きっとこれまでのようなペースでは全くアップできないと思いますし、皆さんのブログにお邪魔することもなかなかできないかもしれません。本当に申し訳ございません。それでも細々と続けていければと思いますので、これからもよろしくお願い致します。


 

 

この拙いブログを始めてもう4年になろうとしています。

 

皆様の温かいお言葉により本当に楽しく続けてくる事ができたと思っておりますが、特にここ1年は仕事の忙しさに加えて親の心配もあり、更新もほとんどままならない状況でした。そしてブログに関連したことが負担になってしまえば、大好きなNSPの曲を聴いていても何か心に引っかかりができてしまう、それは本当に辛い事でした。今年は前向きに進もうと誓ったばかりですが、そのためには荷物を一つおろす事も必要だと感じたのです。

 

NSPの曲を少しでも皆さんに知ってもらおうと始めたブログでしたが、実は私の周りにファンが少なかっただけで、こんなにもNSPを愛して下さった方がおられ、今は私の全く知らない情報を皆さんからたくさんいただけることに感激しております。でもそれはある意味当たり前のことだったわけで「NSPの曲をご紹介」なんて、今となってはなんとも偉そうな動機で始めたブログであった事を痛感しております。それは恥ずかしいだけでなく、心から嬉しい誤認でもありました。

 

申し訳ございませんが、皆様のブログにお邪魔してコメントすることもお休みさせていただきます。

でもだからと言ってせっかく続けて来たこのブログを閉じるわけではありません。

まだ書けていない事があると思っているので、いずれ絶対に再開させていただきたいと思っております。

 

本当に皆様にはお世話になりました。心より感謝申し上げます。

 

 1月もすでに半ばを過ぎとても時期外れな言葉になってしまいましたが、皆様本年もよろしくお願い致します。今年最初のブログ更新、天野さんの曲を心待ちにして下さっていた方がおられたならば大変申し訳ないのですが、どうしても今回城南海さんのこの曲をご紹介させていただきたいと思いました。川村結花さんが作詞作曲され、アルバム「加那ーイトシキヒトヨー」に収められた城さんのデビュー曲です。是非聴いていただけましたら嬉しいです。

 

   愛紡ぎ 心繋ぎ 送る幸せを 知るのなら

   愛の糸を 心の布を 引き裂くことが 誰に出来ようか

 

 昨年は新しい時代「令和」に入りました。子ども達が未来に向かう希望に満ちた時代のはずなのに、なぜか心が引き裂かれるような辛い出来事が次々と起こったように思えてなりませんでした。そして自分自身も忙しさにてまさに文字通り、心を亡くしたかのような落ち着かなさ、気持ちの居心地の悪さを感じる日々でした。そして年が明け、本当に久しぶりに聴いた城さんのこの曲、この詩、そしてこの澄んだ歌声。何か心の底から沸いてくる涙で、体中が洗われるような気がしたのです。なぜこんな気持ちで生きられないのか、何を生き急いでいるのかと。

 

   高い枝を見上げるあまり 足下の花を踏んでないか

   誰かにとって大事なものを 秤にかけて汚してはないか

   強さの意味を違えてないか 守ることで奪ってないか

   勝ろうとしてひざまずかせて あなたにいったい何が残ろうか

 

 もう何年も前になりますが、初めてこの曲を聴きこの詩の部分に触れた時、体が震えるような感情を覚えました。日々相手のためにと仕事をしていながら上から接していないか、独りよがりになっていないか、醜い優越感を得ようとしていないか。そんな心は相手にはわかる、純粋な心を持つ子どもにはわかる、そう思うと恥ずかしさと怖さに震えたのです。

 

   愛紡ぎ 心繋ぎ 送る幸せを 知るのなら

   愛の糸を 心の布を 引き裂くことが 誰に出来ようか

 

 世の争いごとは人のどんな感情から起こるでしょう。綺麗事を並べる心の奥底に潜む「勝ろうとして」の感情。そして何よりそれが決して幸せを生まないことに気づけない恐ろしさ。私にとってこの曲を聴く事は、本当の幸せとは何かに気づくための大切な心のリハビリのようです。

 天野さんはいつも、人の心に必ずある弱さを綴っています。自分の弱さを知る人こそ人に優しくできる人だと、私は思うのです。まだ始まったばかりの新しい時代、自分の弱さと人の優しさに気づける人間を目標としてゆっくり焦らず歩を進めたい、そう強く感じた新年でした。

 

 

 

 

 誰も読んでくださる方がいなかったらすぐにやめよう、そう思いながら始めたこんなマニアックなブログも、何とご紹介させていただいた天野さんの曲がついに百曲目を迎えました。ここまで続けることができたのは本当に多くの方々の温かい言葉のおかげに他なりません。心より感謝を申し上げます。かなり以前より百曲目はこれと決めていた曲は、もうファンの皆様にはご紹介する必要もあろうはずのない、NSPの誇る代表曲中の代表曲です。

 

   田舎の堤防 夕暮れ時に ぼんやりベンチに 座るのか

   散歩するのも いいけれど 寄り添う人が 欲しいもの

   あの娘がいれば僕だって 淋しい気持ちにゃならないさ

   周りの暗さは僕たちのため あの娘がくるのを待っている

 

 実はこの曲は私が初めて聴いたNSPの曲でもあります。そしてまさに家の裏に河川敷や堤防のあった田舎者の私にすれば、当時これほど一瞬にして心をつかまれた曲はありませんでした。

 

   こんな河原の夕暮れ時に 呼び出したりしてごめんごめん

   笑ってくれよウフフとね そんなにふくれちゃ嫌だよ

 

 学生時代、周りにNSPファンなどいるはずもなく隠れキリシタンのようにひっそりと自分の部屋でNSPの曲を聴いていたあの頃でも、時折誰かにNSPの話をすると多くの方がこの曲だけは知っており、あの「ゴメンゴメン」の曲ねと良く言われたものでした。例えばこの短い部分だけをとっても、他の歌手の曲からは決して聴くことのできない詩が詰まっています。描く風景はあくまで素朴で温かく、そして綴る言葉はとても弱くて優しすぎる男性の素の思い。こんな魅力的な世界を一人でも多くの人に伝えたいと始めたこのブログの原点もまた、この曲にあるのです。

 

   夕暮れ時はさびしそう とっても一人じゃいられない

 

 デビュー間もない頃には創作活動に悩んでいたと話されていた天野さん、この曲のヒットがなかったらその後のNSPが続いていたかどうかわからなかったかもしれません。都会に出て誰にも負けないという思いからいっぱいいっぱいになっていたそんな時、ふと故郷の「田舎の堤防」を思い浮かべ、純粋で素朴な自分達の本当の姿と、心にしまっていたNSPの原風景を素直に描こうと思って生まれたのが、この素敵な曲だったのではないでしょうか。

 この曲がNSPを救ってくれたおかげで、その後数え切れない程の素敵な曲達が我々に届けられました。そして45年の歳月を経た今年、一ノ関では田舎の堤防のベンチがメモリアルスポットとなり、駅のホームではこの曲が流されました。天野さんの思いを永遠なる形で故郷やファンの皆様に繋いだこの曲はまさに、神様が天野さんに与えてくれた奇跡の曲だと、今も思うのです。

 

 

 

 秋の感傷に浸る間もなく季節は一気に冬に向かい、北海道ではもうタイヤ交換などの冬支度が始まっています。そんな季節にはどうしても聴く機会が多くなってしまうのが、私の大好きなアルバム「冬の時代」です。その中でも特別に胸に迫る切なさを引き立たせている曲、天野さんに時折見られるとても刹那的な愛を歌ったこの曲を是非聴いていただければと思います。

 

   今夜一つでたらめな夜を これから先は全て忘れて

   闇の底で魚に変わろう 乱れて泳いで疲れて眠るまで

   くちづけ Tonight Tonight それから Tonight

   くちづけ Tonight Tonight それから Tonight

 

 この曲全体にまとっている深く暗い雰囲気からは、何か明日を見失ってしまった二人がまるで何も考えず無秩序に泳ぐ魚のようにただ刹那的な一夜を過ごしている、そんな印象を受けてしまう曲。そしていつもの天野さんの曲らしく、二番にとても光るフレーズがあるのです。

 

   もしかしたら僕を待っていたの 約束なんてしなかったけれど

   乗り遅れた君の青春は どれほど泣いても呼び戻せないんだ

 

 「もしかしたら僕を待っていたの」私がこの曲の中で最も心に残るフレーズです。あるいは自分にはもう未来も何もないと思っていた男が見た、自分を待ってくれている君の姿。自分に関わらなければ幸せになれたかもしれないのに青春を無駄にしてしまった君を、愛おしくも悲しく思い心を砕いている、そんなストーリーまでも勝手に思い描いてしまいます。

 

   くちづけ Tonight Tonight それから Tonight

   くちづけ Tonight Tonight それから Tonight

 

 「くちづけ、それから」ですから、普通に考えればそれは男女が二人で夜の闇に沈んでいくことを表現しているのでしょう。そして「もしかしたら...」のフレーズがなければ、私はこの曲からただ刹那的に一夜を過ごす二人のイメージしか感じられなかったかもしれません。でも青春に乗り遅れてまでも自分のことを待ってくれていた君に気づいた彼であるなら、きっと「今夜のそれから」の先に決して厭世的ではない、温かな何かを感じられたのではないでしょうか。

 令和の時代はこれでもかというほど、悲しく辛い出来事が続いています。そんな時、人が未来を感じられるものは自分を信じて待ってくれている人の存在しかありません。人を幸せにできるものは人の思いだけです。暗く深い闇のような雰囲気の曲の中に天野さんがたった一言しのばせてくれたフレーズ。なぜか悲しいほど二人の結びつきが感じられるこの切ないフレーズに、こんな時代であるからこそ、深い安らぎを感じずにはいられないのです。

 

 

 

 今回はまた天野さんにはあまり多くないけれども、詩の中にお酒がでてくる曲をご紹介致します。初期の大ヒットアルバム「シャツのほころび涙のかけら」のアルバムタイトルにもなっている曲、印象的なベースイントロが一度聴くと忘れられない本当に素敵な曲です。実はこの曲はギターの入らないとてもシンプルな演奏のため、コッキーポップに出た時天野さんと中村さんがマイク以外何も持たず立って歌っていたのを見た記憶が強く残っています。

 

   頬杖ついたテーブルに 涙のかけらが残っているんじゃないか

   思わず息を吸ってみる 君の匂いが残っているようで

 

 おそらくは喧嘩をして言わなくてもいい一言を言ってしまい、君が出て行った後の部屋で一人頬杖をつきながらお酒を口にしている、そんな状況を思い浮かべてしまいます。実はこのアルバムには言葉にしなくても心が通い合うささやかな幸せを歌った「ゆうやけ」や「線香花火」などの曲、そして一方では相手の気持ちがつかめず思いを届ける難しさを歌うようなこの曲や「おはじき」などが絶妙に並べられています。それはまるで天野さんの心の中に対極の思い、すなわち理想に描く温かさと、消えることのない不安や恐れが共存していることを表しているようです。

 

   嫌われたから 愚痴を言っているんじゃない

   君の涙が 見たかっただけ 屁理屈並べて 君を怒らせて 

   ほらそのふくれっ面 見たかっただけ

 

 「君の涙が見たかった」「そのふくれっ面が見たかった」。お酒を飲みながらついこんな情けない言葉を並べてしまう弱い男の本心が、何か歳を重ねる毎にわかってくるように思うのです。

 

   シャツのほころび縫うのには 時間がかかりすぎて

   何をやっても愚図なんだと 言った後で後悔する

   嫌われたから 愚痴を言っているんじゃない

   君の涙が 見たかっただけ

   考えては 一息にまた一杯 頭を抱えて また一杯の酒

 

 シャツのほころびを縫うのに時間がかかろうとそんなことはきっとどうでも良かった。涙が見たかったなどと言いながらもその残された涙のかけらを見るにつけ、それが自分の本心ではないことを思い知らされた。強がる男が一人傾けるお酒にはいつも「真実」が見え隠れします。

 お酒は楽しくても悲しくても、その時の本当の感情を増幅します。自分の情けなさをごまかそうとお酒をあおることで、むしろその後悔から逃れられなくなってしまった男。このスマートなタイトルこそ実は、この男の彼女に対する悲しい後悔の象徴なのではないかと思うのです。

 

 

 

 あれだけの猛暑も過ぎ、ここ北海道は瞬く間に秋の風景に変わりつつあります。今回の曲はとてもスマートなアルバム「THE WIND'S SONG」の中に収められている、天野さんのシングルカット曲としては珍しく比較的大人の詩が前面に出ている曲です。「潮騒」と言いながらも秋から冬にかけての雰囲気に満ちたこの曲が、何か今の季節にとてもふさわしく感じてしまいます。

 

   潮騒が聞こえる海辺のホテルは 季節外れで人影もない

   男と女が安らぎさがして たどり着いたらどうなる

 

 潮騒と言えばやはり三島由紀夫さん、そして我々世代は山口百恵さんと三浦友和さんの映画を思い浮かべてしまうためどうしても純愛のイメージとなりますが、さてこの二人はいかがでしょうか。タイトルは夏を思わせますが季節外れで人影もないホテル、危険を承知で愛をささやく二人、道ならぬ恋なのかどうかはわかりませんが、純愛とはやや遠い印象がまとわりつきます。

 

   投げやりな言葉で傷つける時でも その陰に隠れた真実がある

   男と女のすきまを埋める 優しさだけで いいのに

   

 言葉数の少ない曲ですのでストーリーの真実は聴く方の想像力に任せるしかありませんが、この「その陰に隠れた真実がある」のフレーズ、天野さんが時に見せる弱い男の姿がここにあるように思います。人は温かな幸せに包まれている時は本当のことを言葉にできても、相手の気持ちが見えずに辛い時ほど相手を傷つける言葉や態度で真実を隠してしまうのです。

 

   一つになれれば 一つが幸せ 一つになりたい 体と体

   抱きしめたいけど 抱きしめられない 抱きしめた時に 心と心

 

 途切れた「心と心」の後に続く言葉は何でしょう。愛する人と結ばれたい、でも踏み出す勇気が持てない。人は未来に起こることを知ることはできません。もし抱きしめてしまったら、お互いの心と心はどうなってしまうのか。その切実な不安が隠れているように思えてなりません。

 

   潮騒のホテルは冬を待つホテルさ これから先はどうなる

 

 含みを持たせた最後のフレーズ、もちろんこの二人の結末はわかりません。ただこのフレーズはきっとこの二人のことだけではなく、未来も人の気持ちも決して知ることはできない悲しい人間というものの、先を見通せない恋愛全てに向けられているようにも思えるのです。

 冬を待つ潮騒のホテル。もの言えぬホテルは答えを出してあげることもなく、これからも弱い人間が決めた行動をただ見つめ思うだけなのでしょう。「さあこれから先はどうなる?」と。