ナチュラル

テーマ:

 

 

音楽用語ではシャープやフラットをもとに戻す記号がナチュラルです。

 

シャープやフラットが臨時記号でついた時、緊張感や微妙なニュアンスが生まれます。ググッと来ます。でもナチュラルで元に戻る。

その瞬間、色がパッとなくなるような、真っ白になるような安心感。

人間でいうと、素に戻れた、みたいな。

 

 

このブログはにほんブログ村の「ピアノ」と「クラシック」と「ナチュラルライフ」というカテゴリーに登録しているのですが、ナチュラルライフとしては、にほんブログ村からあまり認められていないようです笑。

 

私の人生を形作ったのは間違いなくピアノ。

いっときはピアノに自分でがんじがらめになっていたこともあります。

でも今は朝起きてお茶を飲んで、ベランダの野菜で朝ごはんを作って、猫にご飯をあげて、そして大切な人たちを大事にしながらその生活の中でピアノを弾いたりピアノの仕事をしていて、本当にピアノがナチュラルな生活の一部になっています。

 

ピアノを弾くことは私にとって自然です。

自分に正直に自然に逆らわず、それでいて自分に誇れるよう、かといって肩肘張らずに素直に生きていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自己表現と承認欲求

テーマ:

 

ピアノは大好きだけれど、ピアノで自己表現をしているかというと違います。

自分なりの解釈、演奏で弾いていますが、技術に限界があり、残念ながら自己表現が出来ません。

 

ただ思うのです。

もしこれが仕事でなかったらそこまで「自己表現ではない」と言い切らなくてよかったのかもしれない、と。

 

しかしこれが寂しいことかというとそれは違います。自己表現や自己実現が全てではないと思うからです。

 

私の趣味は土いじりと料理と短歌です。

もっと極めたい!と思います。こっちの方が自己表現ですね。

しかし、極めて行く過程で限界にぶつかってもがくと、苦しい。現に今、茄子の栽培で壁にぶつかっています。

「極めたい!」と思うことは、自分を探す過程でもありますが、もう一つ紛れもなく承認欲求があります。

これがくせ者ですね。

承認欲求は自然な本能ですが、そこにとらわれすぎる。

今伸び悩む茄子を見て、自分の不甲斐なさを感じています。もし誰かと一緒に畑をしていたら茄子の収穫量を競って落ち込んでいるかもしれない。

どんな茄子がどれだけ収穫できたかが自分の評価につながっている。。

 

それに対して、音楽は別のものです。

仕事がうまくいかない時、どこを目指せばいいかわからなくなった時、戻る場所があります。

私が音楽をしているのは、私にとって自己表現でなく音楽の神様への恩返しです。

自己表現でないからこそ、その想いで音楽ができる。

この想いを抱いた「初心」のとき、音楽での承認欲求は消えました。

 

私がもし音楽の世界で必要とされているなら、役に立てることを一つでもやって行こうという思いです。

逆に音楽の世界で必要とされないとわかったら、趣味の音楽の、自己表現の世界に戻ろうと思います。


 

ブログの更新が滞っていますが、病気ではありません笑。すこぶる元気です。

新しい企画の準備をしています。

いつも読んでくださっている皆様には心より感謝申し上げます。

今日も読んで下さって有難うございました。

 

 

 

 

 

 

 

後悔って

テーマ:

 

昨日、子供達のピアノの発表会でした。

子供ってすごいなと思うのは、1週間前にもう間に合わないと思っても間に合わせられるってことです。

そして本番に強い。

 

いいな〜。

子供のうちにもっと頑張ればよかった笑。

でも出来なかったのが自分だから仕方ない。

、、、ということで今日のテーマは、「出来なかったのは自分だから仕方ないと言いながら、後悔するわたし」です。

 

 

何を後悔かというと、身体的な発達、耳とか指先とか脳梁とかは子供のうちが一番発達するってことを知らなかったことです。大人が子供のうちにやっておけ、とは言ってましたがこういうこととは、、と後悔しているってことです。

それを実感したのは今になってから。

 

しかしいつも言うように大人になって「子供の頃やっておけばよかった」と思ったところで子供の頃やっても大して変わりないんですよね。

要するに「後悔したところでどうにもならない」のではなく、「後悔したところで変わりない」。

 

 

以上。

がっくり。

あっけなく今日のテーマに結論が出ました。

って言うか前々からこの結論出ています笑。

 

なのに時々、うっかり忘れてこのあたりを行ったり来たりしちゃうんですよね〜。なんか過去に戻ったらどうにかなったような気がして。。

 

 

一度かもしれない人生。

(ここはまだハッキリしてません。死ななきゃわかりません)

花を見て、植物を育てて、本を読んで、生徒さんや大事な人たちを大切に、神様の与えてくれた音楽を自分なりに奏で続けていこうと思います。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ピアノで物語る

テーマ:
いつも読んで下さってありがとうございます。
今日は最初にお断りしておくことがございます。
サーバーの問題で、ホームページ、いつものお問い合わせアドレスに繋がらなくなっております。
ご用の方は
hajimetepiano@yahoo.co.jpにご連絡お願い致します。



さて。
昨日は青島先生のコンサートでした。
最高気温を更新するお暑い中、満員のお客様に青島先生の百戦錬磨の豊富な知識をものすごい早口でお楽しみいただきました。
話も話し方も面白いのでお笑いかと勘違いしちゃいますが、音楽の話です。

音楽は物語や言葉である事、は誰にとってもそうなのですが、青島先生の場合はその物語があまりにも突拍子がない。
ほかのピアニストの解釈を聞いた事のない方は「えっ!この曲ってそんな話だったのか…」と100%信じてしまうかもしれませんがあくまで解釈ですので、100%は信じないでください。と言うと先生に怒られますが。

ただ、青島先生はあまりに突拍子なく極端な話を作るので、ものすごく印象に残るんですね。
その物語が本当かどうかはどっちでもよくて、作曲家がほんとはどんな物語を書いたか、は重要でありません。何故なら作曲家は小説家ではないから。作曲家が文章でなく音楽で物語を書いたのは、解釈を弾く人に任せたから。もし正しい物語のストーリーを伝えたいのなら、音楽でなく小説にすればいいのですから。
重要なのはその物語を表現することです。
だから、弾く人は自分で自分なりのその曲の物語を作ればいいのです。


と言われてもいきなり作るのは難しい。
そのために、青島先生の解釈は極端なのでとても参考になるのです。怒りやら恨みやら哀しみやら官能やら喜びやらがストレート。
そして作曲家としての確かな和声の分析を織り交ぜてくれる。だから怒りを喜びと取り違えることはない。この和音はこんな感情になるとか、こんな感情の時はこの和音を使うとか。。西洋音楽はメロディでなくハーモニー、和音の世界ですからね。

青島先生のお話を聴くことで、音楽は物語を理解する事であり物語を奏でることなんだ、と気づいていただけたら嬉しいです。
青島先生も少女漫画家になりたかった方です。
私も漫画家なりたかった。
漫画は音楽に役立ちます笑。



そんなわけで昨日のコンサートを聴いて下さった方は是非自分なりのその曲の物語を作ってみて下さい。音楽に命が吹き込まれます♪







ピアノに出来ること

テーマ:

 

歌人の俵万智さんが、「初めは短歌は自己表現だったけれど、いまは短歌で何が出来るかを考える」と書いてらっしゃいました。

 

 

大変おこがましいんですが、わたしもピアノに対してそんな風に思っています。

大変大変おこがましいんですが、わたしがピアノの仕事をすることで「生きていて良かった!」と思ってくれる人がいたら嬉しいと思うのです。大袈裟に聞こえるかもしれませんが本心です。

 

 

かつてわたしは大島弓子さんの漫画に救われました。「生きていていいんだ」と思いました。

そのときわたしも漫画家になって私みたいな変人を勇気づけたいと思いましたが、漫画描けませんでした。

 

自分のやって来たことは漫画でなくピアノ。

しかも下手くそなピアノ。

こんなのなんの役にも立たない…。

 

絶望しました。

でも、私は転んでもタダでは起きない性格です。いちいち意味付けをする理屈っぽい性格です。あきらめないしつこい性格です。そして転んだからには何か拾うケチな性格です。

 

ピアノが下手なことは、私にとっての挫折。

この挫折の意味は?

なぜ下手なのにやるのか?

 

こんなのが重なって今に至ります。

今では、ピアノが下手なことに意味があったとさえ思っています。

 

 

ピアノに出来ることは人生を豊かにすること。

間違っていないと思います。

子供も大人もみんな、きっと、ピアノで豊かになるって信じています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

音を留める

テーマ:

 

先日の「上達しないからやめました」にいただいたangelさんからのコメントに

 

 

 

私は、音の区別はつきません
私の人生
音聞いていませんから

 

 

 

という文章がありました。

 

 

え、、、?

音を聞かずに生きてきた、、。

思いもよらない。

 

ちょっと衝撃でしたが、ハッとしました。

もちろん耳では聞いている。みんなこの曲が好きとか、いい音楽とか言うし、その曲を歌ったりもする。

でも「聞いていない」。

 

「そうか、みんな人生では音は聞かずに音楽を聞いているのか」と驚きつつも、なんか合点がいきました。

 

ピアノを弾くというと、指を動かすこと、と思っている方が多く「いやいや、音楽は耳で聴くものです」と10000回くらい言っても、音を素通りしていると思うことがよくあります。

これはそう言うことなんですね。

 

絵を考えるとわかりやすいですね。油絵の肌とか遠目には凹凸に見えるけど近くでみると当然平面で、茶色と黒と白で陰影を描いていたりします。

ぼんやり見るときは色を見るのでなく全体を見ている。でもじっと見るとわかる。

 

音楽もぼんやり聞くのとじっくり聞くのではそのくらいの違いがある。でも音は一瞬で消えてしまうんですよね。だから茶色や黒や白を認識できない。

 

耳を鍛えるのがどういうことかそれは

 

音を留める練習

 

つまり

音を瞬間的に記憶する練習

その記憶した音を瞬間的に判断する練習

 

です。

これは意識しないと難しい。

でも意識すると、「ボールが止まって見える」のと同じで、瞬間に音を留まらせて音が見えて掴めるようになる。

 

 

もちろん簡単ではありませんが、意思と慣れです。

聴けると、自分の音楽を作れるようになります。

音を操れるようになれます。

音を操れるようになると、瞬間で消えてしまう大事な音楽をそのまま自分の心にも人の心に残せるようになります。

聴けることでもっともっと音楽の楽しみが増すってことです。

 

 

私もまだまだですが、この豊かな世界の豊かな音を聴いて楽しんで味わっていきたいです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

叡智とは、徳とは

テーマ:

 

 

モーツァルトのオペラ「魔笛」は好きな人と結ばれるために試練を乗り越えるお話です。

と聞くと単なるおとぎ話って感じですが、恋愛の成就には試練を乗り越える力や人としての成長が必要であり、また逆に人としての成長には愛が必要だというお話です。叡智はあるか、徳はあるかが問われます。

 

 

徳ってなんでしょう?

道徳?

もっと根源的な人間の良心と言う人もいるかもしれない。

 

でも私たちが個人で徳と思っていることって実は、すごく、左右されてるんですよね、国の法律、その時代に。。

 

例えば。

覚せい剤常習者で、不倫してて、お金のために自分の子供売る人いたらろくでなしです。

でも日本でも覚せい剤が疲れ取りの時代があった。

一夫多妻という国もある。

貧しくて親が子どもを売らざるを得ない時代があった。 

 

そんな国、そんな時代だったら?

戦時中は家族思いの夫が家族を養うために一方で人を殺した。

その状況で、徳とは?という問いに人を殺さない事とその妻は答えられるかどうか。。

 

 

平和な国の平和な時代に、あたかも自分の信念のように当然のように正義を語ってしまう人間の悲しさや限界を思います。

 

 

なら永遠の普遍的な叡智や徳は存在しないのか?

 

私は存在しないと思っています。

「愛」と言うのは簡単ですが、それでは時代に翻弄された人々があまりにかわいそう。

 

どんな時でも、その時に、時代に流されきっている小さな人間の脳みそで、個人個人が叡智とは?徳とは?と何度でも立ち止まって真剣に考え、たとえそれが結果的に間違ってしまってもそこにコミットメントして生きていければ、それがせめてもの人間の誠意なのかなと思います。

 

流されること、流れに乗ること、流されないこと。

見極めは難しいですが、その時代に生きている宿命の中で心に理想を持ちつつ、やれる事をしたいと思います。

 

 

 

 

 

難しいピアノだから

テーマ:

 

取っつきやすいけど難しい。

これがピアノ。

弾いたその日に正しいドの音が出る、メロディが弾ける、なんだったら伴奏がつけられる。

なのに、そこから先の長いこと、、、。

 

 

全音の楽譜の裏に「初級」「中級」「上級」というレベル分けがありますが、「ずいぶん弾けるようになった!」とわくわくして照らし合わせて見たらまだ初級!?ってがっかりした経験あると思います。

でもそれがピアノ。

ピアノってこれでもかってくらい高度。弾いて初めてわかる。

 

 

そんなピアノを少しでも頑張ったことがある方、ピアノやめないでください。

やめても、もう一度始めてください。

そこまで行くのにすごく努力されたことを知っています。

頑張ったの知っています。

初級とか中級とか上級とか関係ないです。

はじめてピアノの会には80歳以上の生徒さんがたくさんいらっしゃいます。全音の楽譜で言えば初級です。

でも皆様、「ピアノがあって良かった」って言ってくれてます。残ったのはピアノ、と言ってくれてます。

ピアノに費やした時間を、これからの人生に役立ててください。

 

 

80歳を90歳を過ぎて「やり続けて良かった」ときっと思える、とわたしは信じています。

 

 

 

 

 

上達しないからやめました

テーマ:

 

以前こちらのブログでリタイア組さんから「毎日6時間を3年やっても上達しないのでレッスンをやめてしまった、音色の違いなど所詮わからないのでレッスンには通っていない」というコメントをいただきました。

課題が多くて、と書かれていたのできっととても能力のある方だったのでしょう。

それでもやめてしまった、、、切ない、、。

 

少しお時間をいただきましたが、私なりのお返事です。

 

切ないんですけど、ここは感情に流されず問題を整理しましょう。

 

1、毎日6時間やっても上達しない

2、上達しないからレッスンに通わない

 

この2点ですね。

 

 

6時間やっても上達しないということですが、一言で言えば急ぎすぎたのかな、という感想です。

まず第一に「練習方法が合っていたか」という点いついて。

 

急がば回れ、といいますが、正しいことを地道に行う。

これが一番の近道です。

しかし練習方法が間違っているとただの遠回りに加え目的地から遠くなることさえありますね。悪いことを地道に行っては、時間がもったいないだけでなく手を傷めます。これはピアノにとって命取りです。

効率的で身につく論理的な練習が出来ているか、常に考えながら練習する必要があります。

 

正しい練習をしているのに全く上達しないというのは基本が足りないかもしれません。「手が痛くならずに、弾きやすい形でいい音が出る」が基本が出来ていること。ここはゆっくり時間をかけてやらなければいけません。

3年やそこらでは出来ない事です。

 

しかし。

「いや、そもそも今更、その基本が身につきません」と大人の方だと思うかも。

「今更この歳でやっても関節が硬くなっててムリ。子供からやっておけばよかった」と。。

 

でも、子供からやっておけばいま悩んでる問題はなかったか、というと私は子供の時からやっていますが、辻井くんや反田さんに足元どころか爪の先すら及ばず、悩みまくりです。

彼らの100万分の1位しか練習していませんが、それ以前にもう8歳くらいの時に才能の差が歴然としていたんです。

100万倍練習してもやっぱり爪先にも及ばなかったと思います。まあ、100万倍練習する根気ありませんけど。

 

これについては回りくどく言っても意味ないので単刀直入に申し上げますが、子供からやろうが大人からやろうが、個人の資質、個人の能力、個人差の問題です。

ちゃんと個人の能力に応じた結果が出るようになってます。限界は個人の能力に応じて訪れるようになっています。

個人差の問題は生まれ変わらなきゃ解決しません。あ、人間生まれ変わらないかもしれないのでもう永遠に解決しません。

もうそこは認めて受け入れるしかないんですね。

 

だったらもうこれ以上上達しないからやる意味はないのか、レッスンに通う意味はないのか、という2番目の問題に移行します。

これは「成長」とはなにかということを考えると答えが出ます。

 

 

本当に6時間やっても何も上達しませんでしたか?

もしかしたら他人の物差しで上達を図っていませんか?

 

これは私の長年の指導経験から言えることですが、やっていれば必ず上達します。

但し、上手な人の物差しで計ってはいけない。

人と比べて、今の自分プラス10も20も短時間で求めても無理。

まずは自分の能力プラス1。

 

そのために是非レッスンを利用していただきたい。

今弾けている、と自分で思っている曲を先生に聴いてもらって「まだまだ出来ていませんよ」と言われるところから始める。先生に現状を指摘してもらう。いいとこも悪いとこも、これが今の私の実力だと知る。

そこから今の自分の一歩だけ上に進む。

 

きちんと音楽的に弾く喜びは、憧れの曲を無理して弾くことよりもっともっと楽しいものです。なぜなら音楽はスポーツではないから。

先生はそれを知っています。

音色の違いがわからない、とおっしゃっていましたが、その違いを学ぶこと、楽譜に込められた思いを想像すること、西洋音楽という文化を知ること、、、。

そんなことをレッスンで感じてください。知識としてではなく実感してください。たとえ耳が衰えてて音色の違いがわからなくてもそんなことにこだわるジャンルだと知る過程に意味があります。

到達できなくても、触れるたびに幸せになります。

 

 

『ゆっくり行くことを恐れるな。立ち止まることだけ怖れよ』中国のことわざ

『ゆっくり歩む者の方が息長く遠くへ行ける』イタリアのことわざ

 

 

生意気なことを申し上げました。

ですが、こんなに楽しいピアノです。せっかく縁があったのにリタイアなんかもったいない。

どうか自分の成長の過程を楽しんでください。

リタイア組さんが、アゲイン組さんになられますことを心から願っております。

 

 

 

 

 

 

ネガティブの大切さ

テーマ:

 

 

ポジティブという言葉はほとんど使いません。

ポジティブを否定しているわけではありません。

私がポジティブでないわけでもありません。

 

 

ポジティブはいいことですが、ポジティブだけにスポットを当てるのはなんだかな、って感じがします。ポジティブもネガティブもどちらも大切な感情なのに、ネガティブを否定すること自体ポジティブでないです。なぜそこまでポジティブにこだわるのか、逆に抵抗があります。

ネガティブを否定することは感受性の否定になります。芸術は生まれません。

そもそもポジティブだけの人間がいたとしたら情緒欠落しています。

 

水が半分入っていて「これしかない」なのか「まだこんなに」なのかはよく例えで使われますが、砂漠で水がないときに「まだこんなにある」と思うより「もうこれしかない」と思う方がうまくいくと思います。

「もうこれしかない」ことに目をつぶっていては、配分が上手くいかないでしょう。

 

ネガティブな感情や体験は、とっても役立ちます。

困るからこうする、という計画が生まれます。

計画性のない私に言われたくないと思いますが、それが学習であり、経験でしょう。

またその感情があるからこそ、成功も心から喜べるし、幸せも感じられるのです。

 

失敗がいい経験だったとするのは結果論で、その時の感情は間違いなくネガティブ。だからいいんです。そこで充分にその感情に向き合う。充分に、が大事。そこそこじゃダメ。ネガティブがポジティブになるまでネガティブを感じる。

だからこそ失敗が成功の元になる。

 

私は忘れっぽいので、落ち込んでる最中に楽しいことがあるとうっかり浮かれちゃいます。

そんなとき「いやいや、今は落ち込んでいたんだった」と後ほどあえてもう一度落ち込み直します。

そうしないと真剣になれないから。

解決しないから。

 

落ち込んでいる自分は目安になります。

「こんな思いを再びしてはいけない」という。

「次はこうならない」という。

ま、次もこうなるんですけどね。

落ち込んでもなるんだから、落ち込まなかったらもっとなるってことです。

 

ピアノもそうです。

ポジティブだけでは進めない。

もうこれ、ネガティブ以外の何でもないです。

だって天才じゃないんだから。

凡人なんだから。

出来ない自分。

受け入れがたい自分。

そんな現実を残念に思う。

でもそれらを渋々受け入れてただ一歩だけ前に進む。

ネガティブを感じないと10歩も20歩も進みたくなってしまうかこんなことにこだわるのはやめようと思うか、、。

でも真剣にネガティブを感じられると一歩がありがたくポジティブに進める。

 

病気にならない程度にネガティブでいる。

ネガティブ推進キャンペーンです。