今日の午前、亡き祖父の法要があった。
私は吉田家4代目長男で、祖父には初孫ということで随分と可愛がってもらった。
祖父には男子がいなかった。母は婿養子を迎えた。

南無阿弥陀。
親鸞上人の教えを唱える。

さて、人間の生死は遺された者にどのように「作用」するのか?
それは亡き者の生き様を浮き彫りにさせる。
祖父は他所では喧嘩をし、一切家人の悪口は言わなかった。頑固一徹ではあったが、家人を愛した。
これが逆であったら、我々遺された人間は祖父に線香を立てることはしかなっただろう。

人間は生まれる場所は決められないが、死に場所は決められる。
死に場所とは「人間の意思を遺す場所」である。
遺された人間は金や土地、物ではなく、故人の意思を「相続」する。

人間は老も若きもいつ死ぬかわからない。
その生き様、死に様を評価するのは結局、遺された人間でしかない。
我々はいつ死んでもおかしくはない。
言えば、死ぬために生きている、もしくは、生きることが死の価値を規定する、という解釈も可能である。

だから、精一杯日々を生きるのだと感じる。
生と死は等価値である。