バンコクで遭難3 | 吉澤はじめ MY INNER ILLUSIONS

バンコクで遭難3

近寄ってきた男は、少年だった。
真っ赤なシャツを着ていた。
年の頃15、6だろうか。
手を振りながら、何やら僕に話しかけてくる。
一日歩き回って何の成果もあげられなかった僕は、
少し開き直っていた。
「Help me! I have no money.I come from Japan.」
となるべく、簡単な英語で自分の境遇を説明した。
彼は、そのうちHelpとNo Moneyをどうやら理解したようだ。
屈託のない笑顔を浮かべて、手招きをする。
いま思えば不思議だが、彼に対しての恐怖心や猜疑心はほとんどなかった。
もちろん、何かあれば一瞬で反応しようと構えていた部分は、どこかにあったはずだ。
けれど、むしろそうするのが自然かのごとく、彼に導かれるまま掘建て小屋の一つに入っていった。
木造で横長のちょっと長屋を思わせる家には、長い縁側があって、雨戸も開けっ放しだった。
その縁側に座ると、さっそく彼は何か現地の言葉でしゃべりかけてきた。
眉毛の太いしっかりした顔立ちの美少年だった。
僕は「ぜんぜんわからない。」といった身振り手振りをして、
「English? Speak English?」
と訊いた。
彼の反応は微妙だった。
先ほどの対応からして、ほとんど通じないと思った方がいいかもしれない。
そのうち、彼の兄か友人と思われる男が奥から現れた。
彼にも同じように、身振り手振りで自分のことを話したが、いま一つ通じたのかどうかわからない。
彼ら二人で、なにやら僕のことについて話している。
その様子から、いくぶんか伝わっている部分もあるようだ。
僕に対してこそこそと何かを企てているような雰囲気ではない。
むしろ、僕が困っていること、僕にしてあげられること、などについて真剣に語り合っているという風に見えた。
僕がズボンからポケットの耳を出し「ほら何も持ってないでしょ」というジェスチャーをすれば「うんうん」とうなずく。

雨はやがて小降りになり、気がつくとすっかりあがっていた。
雨上がりの匂い。
川からの強烈な汚臭や、真上の道路から漂ってくるアスファルトや排気ガスの匂い、それらが混じりあった独特な匂い。
言葉の通じない3人の男の奇妙なやり取りは続いた。
やがて辺りが少し暗くなった頃、赤いシャツの少年に家の奥へと通された。
「Eat? Drink?」とジェスチャーまじりで訊いてくる。
そういえば、朝からほとんどなにも食べていない。
自然に顔がほころんで、「Yes!」とこたえた。
すると「Beer?」と訊いてきた。
「え?」と思ったが、とりあえず「Yes!」とこたえた。
この頃になると、かなり親近感もあった。
こいつらは悪い奴らじゃない、という動物的なカンもあった。
家の奥にあった小さな玄関から外に出る。
すると、何とそこにはモールのような小さな商店街になっていた。
看板も屋根もないただ商品が雑然と並んでいるだけの粗末な店が3つ4つ。
そのうちの一つが食料品を扱う店だった。
背の低い老婆が店番をしていた。
赤シャツの少年が二言三言彼女に話しかける。
面倒くさそうに老婆は立ち上がって、ゆっくりした動作でヒマワリの種とビールを出してきて、彼に渡した。
彼はまた彼女に何か話している。
どうやら値切っているようだ。
彼女は表情を変えずに「あっちへ行け」
というような手振りをする。
親戚なのかもしれない。
彼からもらったビールは、銘柄もよくわからないものだったがとにかく美味しかった。
さらに、手のひらいっぱいにのせてくれたヒマワリの種の味は、僕のガシガシに歪んだ心の細胞のひだに、甘く優しく絡み付いてきて、思わず涙が出そうになった。

どのくらい時間がたっただろうか?
その路地で2時間ぐらい、ぐだぐだ過ごした頃だと思う。
どこからともなく別の老婆が現れて、僕を見るなり大声でどなりはじめた。
一体何が起こったのかと思う間もなく、彼女は近寄ってくる。
鬼のような形相で、僕に必死に何かを言い続けている。
赤シャツの少年が、あわてて止めに入る。
しばらく、もみ合うような状態が続いた後、少し落ち着いた彼女は英語を交ぜながら僕にもう一度語りかけてきた。
それを聞くうち、その内容を理解した僕は愕然とした。
それは「私の両親、兄妹は日本兵に殺された。」というものだった。

つづく