紹介文
1970年代に活躍したイギリスのロックミュージシャンで2016年12月に他界した、グレッグ・レイクの自伝です。彼は、英国プログレッシブ・ロック・バンドの「キング・クリムゾン」と「エマーソン、レイク&パーマー(ELP)」の創設メンバーとして知られています。本書は妻のレジーナ・レイクに捧げられています。

 

 

要旨
ロックミュージシャンとしての最高の瞬間、1973年12月マジソン・スクェア・ガーデンでのライブコンサートをグレッグ・レイクは振り返ります。ライブ演奏の出来が最高であっただけではなく、全く異なる環境の育った3人が兄弟のように結束して、純粋にいい音楽を作り上げた瞬間だったからです。

1947年、グレッグ・レイクはイギリス南西部のドーセットに生まれます。豊かでなくとも愛には包まれた家庭で育ちました。子供のころから音楽に対する関心が高く、12歳のクリスマスに両親にとっては決して安い買い物ではないギターを買ってもらいます。

近くのギターショップを経営するドン・ストライクに学友ロバート・フリップと共に、ギターを2年半習います。その時にドン・ストライクが語った、「4曲は観客のため、1曲だけ自分の為に弾くんだ」は、グレッグにとって生涯の座右の銘となります。

10代半ばで友人とバンドを組み、パーティーなどで演奏をするようになったグレッグは、ギタリスト、ハンク・B・マーヴィンの演奏を聴いて深く感銘し、プロのミュージシャンになる決意を固めます。

車で各地移動して最初にプロのバンド活動した日々は、決して楽ではなく、寒さと飢えが隣り合わせでした。そののち、家を出てロンドンで活動するバンドの一員となり、プロ・ミュージシャンとして生活できるようになっていきます。その後ロバート・フリップから彼の新しいバンド「キング・クリムゾン」に誘われます。ただし、ギタリストではなくリード・ボーカル兼ベーシストとしてでした。

ベース・ギターの経験がないグレッグでしたが、ロバートの誘いに乗ります。最初の練習ではドラマーのジャイルに基本的なことを指摘される場面もありました。グレッグのヴォーカルにはメンバーも満足の反応を見せます。

 

ローリングストーンズのハイドパークでのライブでキング・クリムゾンはデビュー。レコードもリリースし、注目を集めます。評判はアメリカにも届き、アメリカ・ツアーが決定します。

初めてのアメリカは、グレッグには刺激的な日々でした。しかし、そのツアーの終わりに、キング・クリムゾンのメンバー二人の脱退を知らされます。グレッグはロバートに新たなバンド結成を提案しますが、ロバートは新メンバーを迎えてキング・クリムゾンを続けるつもりだと聞かされ、深く失望します。

最後のライブの後、グレッグは思いがけない誘いを受けます。アメリカ・ツアーでともにライブをしていた英国バンド「ナイス」のキーボード奏者キース・エマーソンからのものでした。グレッグはキースの演奏に衝撃を受けていました。

育った環境も、音楽のバックグラウンドも異なる2人でしたが、音楽でより高いレベルを求める意志の強さやヨーロピアン・ルートの音楽を目指す部分で意気投合し、新たなバンドを結成することを決意します。

バンドの構成は、キーボード・ベース・ドラムのトリオにすることに決め、ドラマーを探し始めます。マネージャーが勧めたカール・パーマーとギグをして、彼こそが探し求めていた人物とグレッグもキースも確信します。

バンド名は、キースが提案した3人の名前をアルファベット順に並べる「エマーソン、レイク&パーマー」に。

1970年8月ワイト島フェスティバルでデビューを果たし、レコード会社とも契約の運びとなります。最初のアルバムでは、グレッグが12歳の時に作った「ラッキー・マン」も入ることになりました。最初は気乗り薄だったキースが、ムーグ・シンセサイザーを曲に挿入する経緯は、グレッグには忘れられない思い出です。

 

 

その後、「タルカス」、「展覧会の絵」、「トリロジー」と次々にアルバムを発表し、大きな成功を手にします。アルバムをサポートするツアーでは、様々なアクシデントや出会いがありましたが、中でもグレッグの印象にとどめているのは、エルヴィス・プレスリーとの出会いと、日本ツアーです。

1971年のアメリカ西海岸のツアーで、エルヴィス・プレスリーのショーを見る機会にグレッグは恵まれました。ショーを見て、プレスリーのスターとしての格の違いを実感します。

その数年後、グレッグは違う形でプレスリーに再会することになります。その時のプレスリーにはかつてのスターの輝きは失せていました。そこへファンが何事もなかったように全盛期のときと同じ声援を彼に送るのが、より忍びない気持ちにさせられました。それから間もなく、プレスリーが亡くなったことを知らされ、グレッグは一つの時代の終わりを感じます。

1972年7月、ELPは初めて日本でツアーをすることになります。初めて訪れる日出ずる国、日本は、すべてが驚きでした。1970年代のヨーロッパでは日本の食べ物や文化に触れることはほとんどなかったからです。グレッグは日本を好きになりまた訪れたいと思いました。

1973年は4枚目のアルバム「恐怖の頭脳改革」のスタジオ収録とそれをサポートするツアーに出ます。スケジュールが苛酷を極め、まるで機械の一部になったような日々が続きます。それが、ELPの音楽的閃きを燃え尽きさせることになったのかグレッグの心をよぎります。

苛酷なツアーは、1974年8月まで続きます。その中でも1973年12月のマジソンスクエアガーデンのライブをはじめとして、ELPとして最高のパフォーマンスをした思い出深いライブがいくつかありました。ELPはミュージシャングループとして最高点にありました。その後、ELPは3年間そろって演奏することはありませんでした。

 

グレッグがELPのアルバムの為に作った「夢見るクリスマス」をソロのシングルとして売り出すことになり、グレッグ自身も驚きのヒットとなりました。これまで様々なミュージシャンにもカバーされ、クリスマスシーズンには町中で聴かれるようになったのをグレッグは奇妙に感じるのでした。

ELPの次のスタジオアルバム「ワークス」では、キース・エマーソンがオーケストラとの共演を強く主張します。グレッグはオーケストラはELPの音楽性に合わないと考え、反対でした。しかしキースは譲らず、結局は受け入れることになります。キースの考えを変えるように強く行動できなかったことをグレッグは後悔します。

同じころ、ELPのメンバーは大きな生活上の転機に見舞われます。当時のキャラハン政権の政策により高額所得者に過大な税金が掛けられることになりました。それを避けるために、スイスに移住することになります。グレッグはモントレーに居を構えます。素晴らしい生活環境を楽しみながらも、生まれ育ったイギリスには何にも代えられないと実感します。

ワークスのアルバム製作が終わり、オーケストラを伴ったツアーを開始します。その結果大きな負債を抱えることになりオーケストラとの共演は、メインとなる会場のみになります。それ以外は、3人でツアーを続けますが、彼らの間では言い争いが多くなります。

 

 

それでも、新たなシンセサイザー、ヤマハのGX1を使用した「庶民のファンファーレ」は大ヒットし、モントリオールでのオーケストラ共演ライブは特別なものとなりました。マジソンスクエア・ガーデンではグレッグがキースを大観衆の前でハグする場面もありました。

その後、ELPはレコード会社にグループのアルバム作成は休止し、ソロアルバムを製作することを申し入れますが、レコード会社は契約上グループでのアルバム作成をする必要があると主張し、メンバーは受け入れられざる得ない状況に追い込まれます。

そうして作成した「ラブ・ビーチ」は、ELPメンバーの誰も望まないアルバムとなりました。それでもグレッグは、3人はプロフェッショナルとして高品質のアルバムを作り上げたと誇ります。アルバム製作後はサポートするツアーも行わず、グレッグがすべてを捧げたといっていい「エマーソン、レイク&パーマー」は解散となりました。

グレッグの生活は一転します。ソロ活動を始めますが、キング・クリムゾンやELPの時のような成功を得ることはないと気づき、受け入れ、静かな生活楽しみ始めます。が、それは長くは続きませんでした。

 

1983年カール・パーマーからエイジアの日本武道館公演の参加を頼まれ、表舞台に引き戻されることになります。その後、1985年レコード会社からのオファーで、キース・エマーソン、コージー・パウエルとトリオを組みます。パウエルとのトリオは音楽的にも商業的にもある程度満足いくものとなりましたが、パウエルはパーマーの代わりにはならず、活動は短期間で終わりました。

1992年ついにELPが再結成とされ、アルバム「ブラック・ムーン」を製作、世界ツアーに出ます。1998年まで、ELPの活動は続きました。

2009年グレッグはキースとELP初期の作品を2人で演奏するという試みをし、それが曲の本質に迫るものと気づき、ライブをすることにします。しかし、キースの様子がおかしく、本番に現れずライブをキャンセルするという事態も起きました。その後キースは立ち直り、2人で全米ツアーをします。

2010年7月にELP結成40周年の一度きりのライブを行うことになります。ライブは成功しますが、カールはこのライブに関してネガティブともとれる発言をし、グレッグはカールの真意を測りかねます。

2016年3月、キースが自ら命を絶ったと知らされ、グレッグは大きなショックを受けます。同時にそれほど驚きではありませんでした。グレッグは、キースが明るく快活に振舞う一方で、時折心の闇に苦しんでいるのを知っていました。それは孤独な子供時代の経験からきているようでした。最近ではインターネットに投稿される自分への評判に過敏になっているのも知っていました。

それでも、グレッグの心に残るキース・エマーソンとは「至上のアーティスト」で、その姿は永遠です。

「死とは生きること」がグレッグの信条です。いつそれが来るにしても、彼は人生に後悔はなく、「ラッキーマン」だったと思っています。

グレッグ・レイクは2014年に末期の膵臓癌の診断を受け、闘病生活を妻レジーナと共に送っていましたが、2016年12月7日に他界しました。


感想
ELPの結成間もないころの3人の並んだ写真を見ると、「グレッグ・レイクは社長、キース・エマーソンは経理担当、カール・パーマーは宴会担当」というビジネス風肩書をイメージしてしまうのですが、

実際、グレッグ・レイクはELPの中でワンマン社長のような振る舞いをしていて、キース・エマーソンもしばしば対応に苦慮したという話が、ELP本やキース・エマーソン自身のインタビューにも出てきます。

 

(本書巻末にサウンドチェックの時のグレッグとキースの向かい合った写真があるのですが、2人の関係性がうかがえます)

読んでいると、ミュージシャンとして強い信念があるのが端々にうかがえます。また12歳のクリスマスで彼の両親にとっては高いギターを買ってもらったり、職業希望で自分の興味があるものがないと知ると白紙で出したり、自覚なくとも自分の意思を強く伝えることが子供のころからできるキャラクターだったのかもしれませんし、人を動かすカリスマ性があったのかもしれません。

傍目には失敗と思えるプロジェクトも、肯定的なコメントを欠かさないのは、「さすが社長」と言ってしまいたくなります。

ELP結成の時の彼の行動やその時に考えていたことは、それほど述懐されていない印象はあります。また、エルヴィス・プレスリーを見て自分は彼のようなスターになれないと思う場面があるのですが、「スターになりたい」と強い意志を持っていた事は語られていません。「ELPをキング・クリムゾンより成功するバンドにする」と決意したような箇所もなしです。

最終章のキース・エマーソンの死に関するコメントは、40年来の盟友だからこその言葉が詰まっていて、特に最後のパラグラフは胸を打たれます。

グレッグ・レイクというミュージシャンの足跡をまとめて追える本と思いますが、彼の人となりは他の関連本も合わせて読まないと全体像はつかめないかなと思います。

 

パー英語は平易で読みやすいです。バンド用語もそんなに出てきませんし、そのあたりわわからなくても筋は追えます。

 

パーUpdates グレッグが亡くなったキースを表す言葉として、a true master of his artと表現していたのをどう日本語で言えばいいか悩みました。ここにはhis artとはすなわち音楽だろうということで「音楽の達人」としましたが、原語が持つパワーがないと思って他の表現をずっと探していました。原語の表現にはキースがミュージシャンとして仲間とファンに示してきた、独創性、究極の技巧、多様さ、成熟さが詰まっていて、それを適切に短く表現するにはどういえばと考え続けた結果、「至上のアーティスト」という言葉に行きつき、それに書き換えました。アーティストには独創性を、至上はその独創性を表現するに足る究極のテクニックやスキルという意味を込めました。