悪についての記述の一部(本文より) | ひふみ神示

ひふみ神示

大峠を小難にして過ごせる方法を、日月神示を元に記述しています。

重要そうなところには、拾い読みしやすいように色を変えてあります。

 

 

地つ巻~第17帖


まことの善は悪に似ているぞ、
まことの悪は善に似ているぞ、
よく見分けねばならんぞ、

悪の大将は光り輝いているのだぞ、
悪人はおとなしく見えるものぞ。
日本の国は世界の雛形(ひながた)であるぞ、
雛形でないところ(併合や侵出先の領土)は真(まこと)の神の国でないから、
よほど気つけておってくれよ、
一時は敵となるのだから、ちっとも気許せんことぞ、
神が特に気つけておくぞ。

今(第二次世界大戦の前)は日本の国となっていても、

神の元の国でないところもあるのだから、
雛形よく腹に入れておいて下されよ、
後悔間に合わんぞ。


地震の巻~第9帖


霊、力、体の三つがよりよく調和するところに真実が生まれ、生命する。
これは根元からの存在であり用(はたらき)であるが、
動き弥栄(いやさか)する道程において、復霊、復力、復体の(動き)をなす。
霊の立場よりすれば、霊は善であって、体(肉への執着)は悪、
体の立場よりすれば、体(欲求や欲望)は善(生きるために必要)であって、霊(物質への無欲や精神世界)は悪である。
悪あればこそ善が善として救われ弥栄する。

(悪が何であるかを知ることにより、善は善くない行いを避けて栄えることも出来る)
善あればこそ悪は悪の御用を為し得るのである。

(善の塊のような人々がいればこそ、悪は寄生や詐欺などの悪事を働くことも可能となっている)
悪は悪善としての神の中に、善は善悪として神の中に弥栄える。
力がそこに現れ、呼吸し、脈打って生命する。
ゆえに生前の霊人は、生前界のみにては善なく、生命なく、
地上人との交流(人々に影響を与えること)によって始めて善悪として力を生じ(善悪の結果が現れて)、生命してゆく。
地上人は地上物質界のみの立場では悪なく、生命なく、

(地球上の人々は自然界の一部としての立場においては、善いも悪いも尊いも特別もなく)
生前界との交流によって始めて悪善としての力に生き、弥栄してゆく。
(神々様の御心に従うことによって、悪や善を使いこなして使命を果たし、喜びや繁栄の道も開かれている)

しかして、なお地上人は死後の世界に通じなければならぬ。
死後の世界との関連により複数的悪善に置かれる。
善悪善の立場(平穏からの悪による混沌、収拾からの再構築や再出発)に置かれる場合が多いために、
地上における司宰神(破戒や創造の主)としての力を自ら与えられるのである。

善悪の生かされ(存在)、御用(お仕事)の悪として許されているのは、かかる理由によるものである。
善のみにては力として進展せず無と同じこととなり、悪のみにてもまた同様である。
ゆえに神は悪を除かん(地上から取り除こう)とは為し給わず、悪を悪として正しく生かさん(破壊の主)と為し給うのである。

なぜならば、悪もまた神の御力の現れの一面なるがゆえである。
悪を除いて善ばかりの世(地球)となさんとするは、
地上的物質的の方向、法則下に、すべてをはめんとなす限られた科学的平面的行為であって、

(一方向にひきつけられた壊れる過程の存在しない、科学的に不足のある立場や行いであって)

その行為こそ、悪そのものである。

(そういった態度や行いこそ自然な状態から離れた、我よしの立場や行いそのもの)
この一点に地上人の共通する誤りたる想念が存在する。

(この一点において、善は悪が居なくなれば世の中が善くなると、悪は善を支配すれば悪が栄えると、双方に思い違いや役割の無視なども共存をしている)
悪を消化し(反面教師やきっかけにして)、悪を抱き(住み分けて)、これを善の悪(偽善の改善のための必要悪)として、善の悪善(再び世の中を建て直す機会)となすことによって、
三千世界は弥栄となり、不変にして変化極まりなき大歓喜となるのである。

(“天界、地上(中)界、幽界…”の三つはそれぞれの喜びを歩むこととなり、変わることなく極端に振れることのない、調和の取れた世界へと移行することも出来る)
この境地こそ、生なく、死なく、光明、弥栄の生命となる。
地上人のもつ想念の本(もと)は霊人そのもであり、霊人のもつ想念の本は大歓喜である。
ゆえに、地上人は霊人によってすべての行為の本をなし、
霊人は神により、神は大歓喜によってすべての行為の本とする。
ゆえに地上人そのもののみの行為なるものはない。
いずれも、神よりの内流による歓喜の現れであることを知らねばならぬ。
歓喜の内奥より湧き出づるものは、霊に属し、外部より発するものは体に属する。
霊に属するものは常に上位に位し、
体に属するものは、常に下位に属するのであるが、
体的歓喜と霊的歓喜の軽重の差はない。
しかし、差のない立場において差をつくり出さねば、力を生み出すことはできず、
弥栄はあり得ない。
すなわち善をつくり力を生み出すところに悪の御用がある。

(人々に善を気づかせるところに、悪の存在価値もある)

動きがあるがゆえに、反動があり、そこに力が生まれてくる。
霊にのみ傾いてもならぬが、強く動かなければならない。
体のみに傾いてもならぬが、強く力しなければならない。
悪(行き過ぎ)があってもならぬが、悪(気づく出来事)が働かねばならない。

常に動き栄えゆく、大和のを中心とする上下、左右、前後に円(丸い世界)を描き、
中心をゝとする立体的動きの中に呼吸しなければならない。
それが正しき惟神(かむながら)の歓喜である。
惟神の歓喜はすべてのものと交流し、お互いに歓喜(助けあいの喜び)を増加、弥栄する。
ゆえに永遠の大歓喜となり、大和の大真、大善、大美、大愛として光り輝くのである。


秋の巻~第2帖


人民は土でつくったと申せば、
すべてを土でこねてつくり上げたものと思うから、
神と人民とに分かれて他人行儀になるのぞ。
神の喜びで土をつくり、
それを肉体のカタとし、
神の歓喜を魂としてそれにうつして、
神の中に人民をイキさせているのであるぞ。
取り違いせんように致してくれよ。
親と子と申してあろう。
木の股(また)や土から生まれたのではマコトの親子ではないぞ。
世界の九分九分九厘であるぞ。
あるにあられん、さしも押しもできんことが いよいよ近くなったぞ。
外は外にあり、内は内にあり、
外は内を悪と見、内は外を悪として考えるのであるが、
それは善と悪でないぞ。
内と外であるぞ。
外には外の喜び、内には内の喜びあるぞ。
二つが和して一となるぞ。

(性質の異なるものが二つに分かれ、それぞれの特色を活かすことが、地球から見た調和した世界)
一が始めぞ、元ぞ。
和して動き、動いて和せよ。
(自身の特性に合わせて移動を行い、住み分けが終わったら対等に接すること→動くためには動いてもいい時期や方位もある→時期を間違えると悪い結果になることも)

悪を悪と見るのが悪。

(悪の世界から来たものを、見極めもせず人括りに悪いものと扱うことは悪)


空の巻~第8帖


衣類、食物に困った時は竜宮の音秘(おとひめ)様にお願い申せよ。
五柱の生き神様にお願い申せば災難逃(のが)れさせて下さるぞ、
岩、荒れ、地震、風、雨、の神様なり、
いろはに泣く時来るぞ、
いろは四十八ぞ、四十九ぞ。
神示(ふで)はその時の心にとりて違わん、

(神示の受け取れ方は心の状態を映し出していて間違いというものもない)
磨けただけに取れて違わんのであるから、
我の心通りに取れるのであるから、
同じ神示が同じ神示でないのだぞ。

悪の世が廻りて来た時には、
悪の御用する身魂(みたま)を作っておかねば、
善では動き取れんのだぞ、

悪も元をただせば善(地球を善くする一部)であるぞ、
その働きの御用(お仕事)が悪(役割としての悪)であるぞ、

御苦労の(人々から嫌がられるような)御役(役割)であるから、悪憎むでないぞ、
憎むと善でなくなるぞ、
天地濁(にご)りて来るぞ、
世界一つに成った時は憎むこと まずさらりと捨てねばならんのぞ、

この道理 腹の底からわかりて、
ガッテンガッテンして下されよ。


空の巻~第10帖


この方 悪が可愛いのじゃ、
御苦労じゃったぞ、もう悪の世は済みたぞ、
悪の御用結構であったぞ。
早う善に返って心安く善の御用聞きてくれよ。

世界から化物出るぞ、この中(神示の関係者)にも化物(悪のお役目や神示を悪用した犯罪者)出るぞ、
よく見分けてくれよ、取り違い禁物ぞ。

この神示(ふで)よく見ていると、いざという時には役に立つぞ、
肝腎の時に肝腎が成るぞ。

(行き詰まったときに解決策や理解が現れる)
元は元、分かれは分かれ、元と分かれ、同じであるぞ、別であるぞ、
それぞれに分かれの集団(まどい)作ってよいぞ、
今日働いて今日食わなならんことに、
皆なって来ているのだから、その覚悟せよ、
上に立つ番頭殿(政治家や大臣)、下の下まで目届けておらんと、日本潰つぶれるぞ、
潰れる前に、そなたたちが潰れるのだぞ、
早う改心して誠(まこと)の政治仕えまつれよ。

いれものキレイにしておりたら(悪い行いに手を出さなければ) この方がよきに使うぞ、

今の仕事仕えておれよ、
神示腹に入れて、焦らず身魂(みたま)磨き結構結構。
今度は世界のみか、三千世界潰れるところまで行かなならんのだから、
くどく申しているのだぞ。