最近、今更ながら皇居散歩にハマっています。

『信長の野望』に育てられた歴史小僧にとって、戦国時代の名将や彼等が残した史跡は大好物です。


もちろん、城はその一つですが、今まであまり『城』としての認識が甘かったのが「我が国最大にして世界最大級の大城郭」江戸城です。


(皇居外苑日比谷濠より、皇居東御苑、大手町を望む)


明治に明治天皇が入城され、それ以降は天皇陛下の御住まいとなっている皇居ですが、現在、私たちが皇居江戸城としてハッキリと認識できる範囲は、皇居東御苑(旧本丸,二ノ丸,三ノ丸)、皇居宮殿(旧西ノ丸)、皇居外苑(旧西ノ丸下)、皇居御所(吹上)、北の丸公園(旧北の丸)、の周囲7.85km、実に425haの部分です。

425ha!❗️


ちょっと想像しにくいですが、これは東京ディズニーリゾート主要部(ディズニーランド、ディズニーシー、専用駐車場、オフィシャルホテル)とほぼ同じ面積です!



(北桔橋御門から一橋大学を望む)


これだけでも十分すぎるほど巨大な城郭ですが、この範囲は江戸城の内郭にすぎません。

この領域の外側を、さらに総延長約16kmに及ぶ外堀が巡っており、これが江戸城の外郭を成し『江戸城総構え』を形成しているのです。その面積たるや、

なな、なんと、2082ha❗️

もうデカすぎて訳がわかりません!


この外郭部分を構成する外堀の各所には『見附』が配されています。赤坂見附なんて有名ですよね。ちなみに東京駅は総構えの中、つまり江戸城の中に位置しているので『丸の内』なんて言うんですね。



(本丸天守台から大奥、中奥、表、各跡地を望む)


外堀には18の見附や御門、内堀にも18の御門があり、これを『江戸三十六見附』と呼びます。各見附や御門は、石垣と櫓に囲まれた方形陣地に大小二つの門を直角に配した『枡形』といわれる防御構造になっており、今でも壮観な佇まいを見る事ができます。


また、『天下普請』という全国の大名家が各所を分担施工する普請方法がとられており、例えば「大手門は伊達政宗」、「富士見櫓は加藤清正」といった具合に、大名家ごとの建築と仕上げの違いを楽しむことができます。


(本丸天守台は前田家が建築。贅を尽くした美しい"切込接"の石垣で、石はなんと瀬戸内産)


江戸城はこの広さと贅を尽くした壮観な造り込みだけでも見応え十分ですが、驚きは家康公が入る以前、江戸は現在とは全く違った地形であったことです。当時の江戸城は現在の本丸周辺部分しかなかったと推定され、二の丸、三の丸、西の丸下は『日比谷入江』という海でした。


家康公は、先ず江戸の土地を湿地たらしめる大河である、『利根川の東遷』と『荒川の西遷』という大河川改修を行い、江戸の干拓工事をしつつ、江戸城周囲の神田山を削り、その土砂で入江を埋め立て、平川を曲げ神田川をつくり...等々、ユンボもダンプもない時代においてまさに途轍もない大土木事業を計画実行し、現在にも残る江戸城を完成させたのです。まさに土木の鬼ですね❗️


(皇居東御苑梅林坂より本丸平川濠石垣を望む)


江戸当時の古地図と現在の東京を重ねると、驚くほど昔からの町割が残されています。大通りの位置も含め、いかに江戸の設計が東京の土台となっているかが分かります。天下普請は各大名家には過酷な仕事だったでしょうが、江戸城築城は「この地を日の本一の都市にする!」という家康公の壮大な都市計画であり、結果として経済は急成長し、当時世界一の人口を内包する都市にまで発展したのだと思います。土木は偉大なりです❕

(本丸大芝生の寒桜)


見所があり過ぎる江戸城ですが、天下の武将、徳川家康公の政治家としての一面に触れながら、その場所が今世は皇居となり、今上陛下が御住まいになられていると思うと、我が国の歴史の偉大さと面白さを感じずにはいられません。