東京東村山市「東村山駅」界隈の廃屋群-21から更に先へ進むと、この無人の家があった。

雑多なものが無人の家の周りに置かれている。家の中に置けなかったものなのだろうか、それとも「置きたくなかった」ものなのだろうか。どちらにしても物が多すぎた結果なのだろう。そしていつ頃なのだろうか、母屋の中もからっぽになった。

どれも必然だったのだろうか、それともある種の「故意」だったのだろうか。

しかし最低限は片付けられていた。こうした片付け方もあるのかもしれない。

 

私の片付け方は、「整理」ではなく、「仕舞う」ことだ。押し入れや戸棚に入れる。そうすると、「片付け物」は取り合えず見えなくなる。しかしこの「片付け方」は一番悪い。良いことはほぼない。どこに何を仕舞ったかが絶望的に分からなくなる。だから「片付け」は整理整頓でなくてはならない。しかしそれには手間がかかる。それに比べると、「仕舞う」は簡単だが、先のことは全く考えていない。親に云われて仕方なしにやるのとほぼ同じで、目線に入らないだけで、片付いてはいない。そしてそれが不満足なやり方であるのは、自分自身が一番よく分かっているから、心の隅に蟠りがある。だけどそうした蟠りはいつか忘れる。

その時はそれで済むが、後々大いに困る。それが分かっていて、整理整頓をしないのが、一番いけない。

 

まあー無人化した粗末な家の雑多なものについて、「整理整頓」を云っても何も始まらない。

だから、新年早々だけど、己にモノ申している。

撮影日:令和4年12月28日