三菱ジープの断酒日記 -2ページ目

三菱ジープの断酒日記

千葉県柏市在住、2021年7月3日になれば70歳です。中国在住の日本語教師だったのは昔。他のアルバイトも昔。騒々しい人生で家族に心配と迷惑を掛けてきましたが、やっと落ち着き……と思うと、また新しい「迷惑」が……。

 中国から日本に帰ってきて、日を置かずひこさんに電話、会場をとってもらって会食、しかしひこさんの押さえる馴染みのお店はどういうわけかこの小童に「おいしい」と感じられない、という傲慢な報告を、上で致しました。

 ある時。それは、夏の盛りでした。ひこさんは中央駅裏の洋食屋さんを予約してくれました。午後八時というかなり遅い時間帯で、それでもテラス席しか取れなかったようでした。別に野外でも良いのですが、蒸し暑いだろうなと思いながら服装に気をつけ出かけたら、予想の倍、蒸し暑いのでした。そもそも盆地であり駅周辺は特に標高が低くなっており、あまり風が抜けてはいかないのです。

 お店のウェイターさんの応対は気持ち良かったし、「今洗濯業者さんが持ってきたばかりです」然とした清潔さの、折りジワのびしっとした制服にも好感が持てたのですが、定刻八時、テーブル上にずらりと一口大のカナッペが並ぶことになり、少し意外の感を抱きました。別にカナッペで構わないのですが、さすがに私は考えたのです。これは要するに、時間が時間だから軽く食事は済ませてくることを前提としているのか? もしそうなら、あえて空きっ腹で出かけてきた小童は失礼なことをしたことになる、と。なにしろ久しぶりにひこさんと二時間の会食をしようと思ったのですから、ごく軽いものしかお腹に入ってはいません。時節柄飲み物はいろんな銘柄のビール、ないし発泡する冷酒と決まっているので、六五才の胃袋、あぁ胃袋は十年前に取っ払っていたのですが、要するに欠陥のある消化器官にはあまりフィットしないかもしれないのでした。しかし私は手の込んだ……それこそフォアグラやキャビアなんかもあったかもしれません……カナッペを食べながら、ひこさんに会場をキープさせておいて下品なことを考えてはいけなかった、と静かに反省しました。

 食べ物に関しては私はかなり「いやしい」人間であることを自覚しています。

 ひこさんと私は互いの状況について大いに交流を深めました。すでに済ませている話題でも、いや何度目かでも、そんなのどうでもいいのです。とにかく何十年もその活動で口に、家族の口に、糊したのですから、話題はどうしたって三十年、四十年、続けた仕事のことになります。

 更に、ひこさんの方には激変する日本の土木業界に対する独特の見解があり、それは大層情報として価値があるものでした。他方、私の、中国の最北の省における二年間の暮らしや、現地の人々との交流、また最南の省における、二月から一一月まで摂氏三〇度を超すという暮らしには……しゃべっている方は楽しくても……、あまり資料的(?)価値はないようでした。

 予定通り二時間をそのテラスの店で過ごし、歩いてそれぞれの当夜の寝場所に向かいます。ひこさんは、お料理どうだった? などと聞きません。聞かれてもいないのに私も感想を申し上げたりしません。自分の中では、多忙な中、何軒ものお店に電話をかけ続けてくれたひこさんへの感謝もあったのですが、あえて言ったりはしません。

 ここを過ぎるとひこさんは自分の家へ私は安ホテルへ別々の道、という分岐、面白いことに成人映画専門の館があります。何十年も前から、外形も営業ポリシーも変えようとしない、とても偉い映画館です。

 ここ、入ったことある? とひこさん。

 三八才でこの町を離れたけれど一度も入りませんでした、というか成人映画そのものを見たことがありません、と私。

 ひこさんは笑いながら、次回帰ってくるのはいつ?

 私は、半年ぐらい先でしょうかね、と返答しました。

 半年、かかりませんでした。姉が肺に癌を患っており、それが脳に転移し、抗がん剤で増殖を抑えてはいるものの、ゆるやかな衰弱は誰の目にも、本人にも明らかだったのです。癌患者というならこの私も同様ですが、姉の方が病状においては進んでおり、もう自力で飛行機に乗り込むことは不可能になっていました。

 弟が会いに来るのが正着なのでした。姉の家とひこさんの家は、直線距離にして二、三百メートルしか離れていません。

 姉は私の顔を見ると時に大酒を飲みます。昼間でも朝でもかまいません。大酒を飲み、しかも酔いません。私はつきあうわけにはいきません、夜はひこさんとの会食が予定されています。

 今日はどこで会うんや? と、羊羹をつまみに日本酒を飲みながら、姉。

 駅前ビルの二階に入ってる★というところ。と、私。

 姉は首をかしげて、高い店を選ぶもんやな。

 私は、姉ちゃん行ったことあるの? と聞いてみます。返事、「ない。せやけど名前からして高そうや」。

 妙なことを言うようになったな、脳への転移のせいかな、と思いながら、姉の家から出てタクシーに乗ります。予定よりかなり早く着きすぎ、二十分近くひこさんを待つことになりました。さりげなく客室の様子、水を打たれた玄関の様子を見学するのですが、なるほど、名前はともかく、格式は高そうなお店だ、と思いました。だいいちお料理を運び説明する女性の着ているのが、ウールじゃなく正絹です。柄がみんな違って、帯も帯留めもみんな違って、それでいて共通の要素もあり、うまく書けませんがお運びさん相互の先輩後輩、指示系統の整理が、それによって為されています。玄関先の敷き石がが少しでも乾燥すれば男衆さんがさっと出てきて過不足なく水をまいてくれます。客室内でうっかり畳の縁を踏むというトレーニング不足の人は誰もいません。

 何となく、姉はどこまで知っとったんかな、と思いました。

 ひこさんが定刻の五分ほど前に登場、すぐに八寸が運ばれてきますが、私はこの失望ないし戸惑いが顔に出ないこと、そればかりを心がけていました。八寸皿が木製で右端に穴が開いていてそこに季節の花が挿してあります。このような演出を喜ぶ客だと思われている、それが少し不満でしたが、とりあえずひこさんの手前、褒めておくしかありません。私はお刺身を出すなら魚の種類にもよるだろうが基本的にカドがきちんと鋭角的に立っていないといけないと思うし、揚げ物を出すならつゆの温度に気を配るより揚がってから客室に到着するまでの時間に気を配るべきだとも思っています。お店によってはネタを客のいる部屋で揚げる、ということをします。それはもちろん「味は物語に依存する」という食の原則に照らし合わせてすばらしく美味なのでしょうけど、その逆の路線を行く、行ってしまうお店の方が圧倒的に多いのでした。

 とにかく私は食材と客の舌に対する敬意とお店で考えた演出が、本末転倒であるという例をたくさん知り、深く憎み、軽蔑しないではいられない我が儘なイカレポンチなのでした。

 会話自体はひこさんの大いなる努力があって、楽しく弾みました。そして私はついつい、最後まで言わないで済ませるべきだった「提案」をしてしまう、そのファルスを犯してしまったのでした。

 

 それがつまり「柿ピー」。

 

 

 

 小学校時代の同級生、もう本当に「できすぎた」存在であるひこさん。男前で運動神経が良く成績優秀で先生にも同級生にも信頼が厚い。まさに町の「花」。でももちろん、全てに、神のように完璧ということはない、書きながらそう思い返しています。

 私、小童は、ひこさんと小学校卒業後も仲良くつきあっていたおかげで、色々と良い思い出を創りました。一九七〇年かその一年前だと記憶しますが、夏に高校野球をテレビで一緒に観戦しました。東北地方のどっかの高校と四国のどっかの高校が、ともに素晴らしい投手を擁して決勝戦まで進み、大いに日本を湧かせたのです。どちらも相手に得点を与えず、奪えませんでした。零対零で延長戦を戦い続け、なんとそれは十八回の裏表に及び、ついに翌日再試合となります。私がこれを書いている今、二〇二〇年代ということですが、大きくルールが変わっています。チームの選手、特に投手に過度の負担を与えないために、延長戦はそんなに長く闘いません。再試合するにしたって、「翌日」ということはないでしょう。してみると五十年前は選手の健康も将来性も考えない、全くの無茶が横行していたということになります。

 私はこの決勝戦、翌日再試合、その両方をともども、ひこさんの解説付きで観戦しています。得がたい贅沢であったと,今なお感謝しています。更に、同じ頃、アメリカのアポロ計画がついに月面に人間を送り込む所まで成熟しました。オルドリン、コリンズ、アームストロング、この三人が地球の基地と連絡を取り合いながら、どんな風に月面を踏むか……実際に降り立ったのは二人でした……、踏んだ瞬間どんな単語を発したか、つい昨日のことのように覚えているのですが、それは、ひこさんがテレビの前で小童に「今の会話は……」「今のジェット噴射の目的は……」と、解説してくれたからでした。

 ひこさんは大学では流体力学を修め、てっきり大学院に進むだろうと思ったのですが、四年の学部が終了すると、富山に本社のあった大手ゼネコンに就職しました。多忙を極め、私は彼と会えない日々を送りました。日本全国のダム建設現場やトンネル工事現場をとび歩いていたせいです。何ヶ月か私達の住む市に地下鉄を通しに来たこともあり、久闊を叙すことができたのですが、ひこさんは一杯のビールで吐いてしまうほど疲れ切っていました。あらゆる才能を有し、欠点など皆無のように見えるひこさんでも、現場作業員さん達やそれを束ねる親方連中との人間関係調整にあたっては、年齢ギャップをはじめとする乗り越えることが難しい課題もあったのでしょう。

 私自身は、大学卒業時に就職先を決める能力がなく、数ヶ月の無職状態を経験しました。今思い返すと「アブナイ」数ヶ月だったと思います、まず家から出るべきだ、と思った私は、レコード屋の店頭販売員、市で最も大きな神社の門前にあった和食料理店の板場……なぜだか今でも調理師免許は保有しています……、タクシー運転手を経験しました。「ひきこもり」という言葉はその頃まだありませんでしたが、そうなる危険性は感じていた、ということなのでした。そもそも表に出て仕事をしないと健康保険だってないのです。二九才で公立高校の国語科講師から何度かの採用試験を経てようやく教諭職に就いた時、私は三十歳を越していました。すぐに結婚、すぐに父親となるのですが、ひこさんのほうはごく早い段階で社内結婚をし、順調に将来の管理職への階梯上にありました。三十代、四十代と私達は多忙に暮らし、近くにいても会えない,年賀状だけのやりとりである数年間を過ごしましたが、多少の無理があったとしてもその時期こそ、会って、それこそ柿ピーがつまみでもいいからビールの一リットルや二リットルは飲んでおくべきだったと、悔やんでいます。

 五十代。ひこさんの会社が倒産しました。そもそも私達の国土にはもうダムもトンネルも造る余地がないのです。本四架橋は例の……毎年ノーベル賞の時期になると名前を聞くことになる……作家が長編小説の中で書いた通り、一本で良い所を政治家の力で三本に増やしたりしましたが、ひこさんの会社はそういう政治家との関係において他のゼネコンの後塵を拝していたようでした。しかし本社は倒産しても何しろひこさんですから路頭に迷うようなことは有り得ません。今まで建築・建設したおびただしい社会インフラを保守点検する会社が絶対に必要で、彼は新しく創られたその会社の役員におさまりました。もう新しい建造物は生まれないにしても、五十代で常勤の取締役なのですから、やっぱりその才については驚嘆すべきものがあったと、あらためて感じ入ったのであります。源氏物語を読んでおりますと、葵上でしたか、紫の上でしたか、死去に際して生き霊が出て参ります。この小説では夕顔をはじめとして多くの女性を取り殺してきた筋金入りの嫉妬深い女の生き霊です。今まさに光源氏の恋人の命を奪おうという時、彼に向かい、実に不吉なことを口走ります。

 自分はかつて深くアナタを愛した者である。その狂おしい恋情を自分でどうにもできなかった、私が取り憑きたかったのは実は光源氏、あなたである。しかしあなたにはどう取り憑こうにも神仏の加護が強すぎて無理だった、だから仕方なく、あなたの愛した方々に取り憑き、次々死なせることになった……。

 …………て、いやいやいやいや、そこを読んで「まるでひこさんが光源氏みたいだ」と思った、というのはあまりに下手な小説「風」の言葉遣いであるわけで。

 それはそれとして。

 若くして常勤取締役となったひこさん。今こそ、ゆっくりと会って話の一つも聞けるかと思ったのですが、私の方が高校教員退職後、中国で四年間を暮らすことになりました。二都市二大学で日本語日本文学を講じ、日本に帰ったとき、もう六五才になってしまっていました。しかしまだ、ビールの二リットルや三リットルは飲めます。

 すぐにひこさんに連絡を取りました。昔と比べて二人とも、自由時間の確保が楽になっていました。会う場所は、基本的にひこさんの家がある市のどこか、ということになりました。数ヶ月おき、ということは昔とははるかに違う頻度で、私はひこさんの、日本全土を股に掛けた活躍話、苦労話を聞くことになりました。日本では大手ゼネコンであろうが土地の中堅建設会社であろうが、点検・引き渡しは日程厳守、それを守るのに昔は今より遙かに苦労したがその最も大きな要因は職人連中が若い現場監督の指示・依頼を時として「参考程度」にしか受け止めないことだった、ある県であるトンネルを掘ったときは……などという苦労話を拝聴するのですが、なるほど「現場」の話というのは面白いものだ、と感じ入った次第でした。日本はそもそも大規模建造物が飽和状態にあり、大先輩に言わせるとそれはもう清水トンネルや黒部ダムを造ったときからわかっていたことだったらしい、などという話を聞くと、六十代の半ばにさしかかっているというのについつい子や孫の代の心配までしてしまうね、などと、日本酒やビールの勢いを借りて、そこにはいない誰かにとっての「余計なお世話」を焼いてしまうのでありました。

 で。

 会場はいつもひこさんが押さえてくれたのですが、何度目かの食事会を経て、私は妙なことに気づくことになりました。

 ひこさんのお気に入りの店は、どういうわけか基本的に、舌の許容範囲を超えて、まずい。見かけもよくはない。ひこさんは「このお店は予約が取りにくいんだ」というけど一口食べて、その理由がわからない小童がいる。

 

 てなわけで。

 

 次回は(明日か明後日)ようやく、「柿ピー、公園のベンチ、発泡酒」について思い出話を綴ることになります。

 

 

 

 

 うめつくんは、「この小学校にはひこさんがおるから、卒業までオレらには女友達はできない」とぼやきました。このうめつくん、十数年後には中学の数学教師になります。私は、うめつくんには事実誤認がある、もしかしたら複数ある、と思いましたが、指摘したりしませんでした。卒業まで、もういくらも登校日数は残されていない。もめ事を作る必要はありません。事実誤認の一つ目は、ガールフレンドができない原因は、ひこさんが「できすぎた男子」だからだ、という暢気な観測でした。明らかに違います。彼は、「男(じぶん)・うめつ」についてどう計量しているのだろう? いささか、情けない納得だと思います。二つ目は、そんな考えじゃ中学へ進んだって女の子と仲良くできるもんか、ということでした。なにしろ永遠にそこには「自分をはるかに凌駕する男としての魅力」が君臨していることになるじゃないですか。違うだろう、私達は、そういうことをなかば認めた上で、なかば「あわい」を縫う形で、恋愛をして結婚するのだろう、というのがその時の私の考えでした。

 それに。

 大事なことは、恋愛はともかくとして、どんなに顔と性格が魅力的でも、頭が良くても、字がうまくても、人間関係調整能力に富んでいても、あるいはたとえば一つの野球チームを作るとしてピッチャーからライトまでどこでも完璧に守れるほど運動センスと反射神経が良くても、生涯にわたって、同時に結婚できるのはたった一人です。世界の民のうち半分、つまり三十五億の女子が「ひこさんが好きよ」と言っても、ひこさんには一人しか選べません。私はうめつくんのような心配をしていませんでした。いつかある日、成長したひこさんに向かい、たとえば……ええと、グレタ・ガルボとイングリッド・バーグマンが口を揃えて「あたしと結婚して」と言っても、両方のファンである小童は落胆したりしません。ひこさんが選ばなかった方を、おもむろに結婚相手にすれば良いことです。

 以上、いつものように誇大妄想狂的なことを、八百字ほど書きました。昨日の日記の最後に書いた「事件」について。

 給食時間帯は、いつも奇妙に静かになります、立ち歩いて良いのは給食係だけで、ほかはみんな着座が義務だからです。ひこさんの机に集まってその超人的な魅力のシャワーを浴びるのが好き、そのために学校に来る、という女子も、静かに着座していなければいけないのが昼食前です。

 突然、金切り声が響きました、「もう! アタシの胸ばっかり見んとってよ!」

 叫び声の主は、さきに報告した、絶対に徒党を組んでひこさんを取り巻いたりしない硬派の女子、「なかまさん」でした。彼女が給食当番の一人として何かを配っているとき、ひこさんが、彼女の胸を凝視したらしいのです。それに対する抗議でした。でも私は、瞬時に、そりゃなかまさんの誤解だ、と思いました。ひこさんが、特定の女子の胸部をじっと見る、そんなことは有り得ません。絶対に有り得ません。小学六年生でしたけれど、何歳であれ、特に女性に対し、無礼なことを働かないのがひこさんです。とはいえ、なかまさんの顔は紅潮し、座っているひこさんを睨み付けていました。ひこさんが抗弁します、誰もあんたの胸なんか見ていない、おかしなことを言わんとってくれ。

 ああ、と思いました。事実の経過はひこさんの認識通りなのだろう、ひこさんはじっと、ただ前を見ていた。なかまさんが何かを配布しようとしてひこさんの視界に入った、それだけのことなのだろう、しかしひこさんには残念ながら、その瞬間、ことばを選ぶ才がなかった、そう言わざるを得ない、とりわけ彼女の胸部の存在価値を貶める、胸「なんか」という副助詞だ。続いてひこさんは「おかしなこと」と言った。なかば強引な「抗議」だったにせよ、なかまさんは、学校一の好男子であるひこさんが自分の胸を見たことを、周囲に自慢したかったのだ、周囲に……とりわけ女子仲間に……宣言したかったのだ。私の胸には、あなたたちが憧れてやまないひこさんの一心の凝視を「させる」力が、ある。

 なかまさんにとって、それはどんなにか大きな「誇り」だったことでしょう。

 私は、立ち上がりました。給食配布中は係以外は全員着座が義務ですがたまたまその時間帯先生はいません。私は小学校在学中もっとも大きな事件が進行中のその場所へ行きました。そしてひこさんのそばに立ち、言いました。

 あやまれ。

 ん? という表情を、ひこさんが見せます。当たり前です、謝ればひこさんは自分の無礼な胸部凝視を、認めることになります。ひこさんの口が一瞬、薄く開き、また閉じられました。ひこさんと私・小童は、同じ事を違う言葉で、違う人生で、考えていました。ひこさん、あやまれ、と私はもう一度、声には出さず、つぶやきました。それは音になっていなくても、ひこさんには届いているはずでした。

 憮然として黙るか、謝るか、ひこさんには二つの対処法しかありません。謝れば事実でない抗議に屈したことになる。しかし少なくともクラスの男子全員の、ひこさんに寄せる信頼は、ゆらぎません。本当の経緯に気づかないほど鈍感な小学六年生では無いわけなのでした。そして、万が一クラスの女子が「本当にひこさんはなかまさんの胸をセーター越しにせよ、見たんだ」という誤解をしたとしても、それでひこさんの評価が下がることは、あり得ません。むしろ彼女らの感じるのは一種のさわやかな納得、ないし「安心」でしょう。

 ひこさんの表情が変わって行きます。最初、このボクが女子……誰であれ……の胸を見たりするわけないだろう、という抗弁の表情だったのでした。でもそれが、次第に変わります。

 ひこさんが立ち上がりました。私から視線を外し、なかまさんを見下ろし、「すみませんでした」。

 何秒か、誰も動けない時間があって、やがて、ゆっくりと動き出した人がいた。給食当番の一人がやってきて、彼女の手からレードルをそっと自分の手に移したのでした。次いで寸胴を受け取りました。別な一人がなかまさんの肩を抱いて自席へと無言で誘いました。なかまさんは座り、自分の食器を少し推して空間を作ると、両腕を机に付けました。そこに自分の顔を埋めました。誰も職員室に走ったりしなかったし、誰もひこさんを糾弾したり、この小童に向かって本当の所はどうなのかと聞いたり、なかまさんを気遣って声を掛けたり、しませんでした。その時最も自然で有効な態度に徹したわけです。給食の開始が合図されても、それが終わっても、午後の授業が終わり下校の時刻になっても、次の日になってもその次の日になっても、卒業の日を迎えても、この日のこの出来事を話題にする者はいませんでした。

 だから、事件だったのです。

 

 ……書いてて楽しいので、なお続きます。なかなか、「手のひらの上の柿ピー」のことを報告できません。でもだんだん、そんな具体物はどうでもよくなってきました。