林信次『インディ500 全101レースの記録 1911-2017』を読む | 日日不穏日記・アメブロ版

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 時間が出来たので、2018年10月に発行された林信次氏の『インディ500』を読むことにした。1911年の第1回大会から、佐藤琢磨が初優勝した2017年までの101回大会までの記録。1大会ごとに2ページ、レースの内容紹介とデータ、写真2枚に公式リザルト。

 いつだったか、GAORAのインディカー中継でプレゼント企画をしていて、応募。本はもう、手元にあったんだけど、500部のみの配本で、税抜き8000円の大著。当たったら、保存用にしようと思ったけど、当然ながら外れた。読もう読もうと思ってて、つい後回しに。ついさっき読み終わったところ。

 第1回大会では、レイ・ハロウン(1879~1968)で、他のドライバーがライディングメカニックとの2台乗りで走る中、考案したバックミラーで走行。他車より、ピットストップを減らし、30周あまりリリーフドライバーに委ねた後、コクピットに戻り、優勝。観客は8万人ほどいたという。

 レースは6時間42分にも及び、初期のF1同様、ドライバーチェンジが認められていたようだ。ハロウンのバックミラーは論議を呼び、翌年からライディングメカニックの同乗が義務付けられた。第3回大会の優勝者、ジェル・グー(1885~1965)は、「のどを潤すため」、ピットストップのたびにシャンパンを4本がぶ飲みして、「酔っ払い運転をして勝った」と報じられたという。

 1923年に義務化を解かれたライディングメカニックは1930年に復活(38年に廃止)。29年にはブリックヤードをアスファルトやコンクリートで覆い始めたという。1936年にボーグ・ウォーナー・トロフィーの授与、公式ペースカーのキーが渡されるようになり、優勝したルイス・メイヤー(1904~95/初の3勝ドライバー)が、子供の頃から愛飲していた牛乳をビクトリーレーンで飲み、これが戦後、地元の酪農協会が優勝者に牛乳を提供する伝統のきっかけになったとか。

 1955年、前人未到の3連覇を目指したビル・ヴコヴィッチ(1918~55)が多重事故に巻き込まれ、事故死。レース後コースが改修され、メインストレート以外がアスファルト舗装に。翌56年から、ビクトリーレーンでのミルク飲みが恒例行事になる。

 1950年に始まったF1世界選手権にインディ500は組み込まれていたが、世界選手権の体裁を整えるための形式的なもので、両者の交流は殆どなかったことはよく知られている。例外は1952年にアルベルト・アスカリ(1918~55/1952、3年チャンピオン)が参加したことと、逆にこの年の勝者のトロイ・ラッドマン(1930~97/22歳80日・・・最年少記録保持者)が、58年のフランスGP(10位)、ドイツGP(タイムなし)に参戦した程度。

 が、世界選手権から外れた61年から、F1ドライバーのインディ500参戦が活発になり、AJ・フォイト(1935~)が初優勝したこの年に59、60年チャンピオンのジャック・ブラバム(1926~2014)が参戦(9位)、翌年にはダン・ガーニー(1931~2018)が、63年にはジム・クラーク(1936~68)が参戦して、2位フィニッシュし、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。

 65年には、クラークが190周をリードする圧勝劇、66年はグレアム・ヒル(1929~75)とジャッキー・スチュワート(1939~)が激しい優勝争いをし、ヒルが優勝し、スチュワートはルーキー・オブ・ザ・イヤーに。F1ドライバーが2年連続で優勝を果たす。この背景には、ヨーロッパの技術を持ち込めば、インディ500に勝てるだろうという、目論見があり、事実その通りになって、ミドシップ・カーはロードスターを駆逐していく。

 この時期には、NASCAR83勝のレジェンド、ケール・ヤーボロー(1939~)も66年~72年まで参戦していて、ベストは、72年の10位フィニッシュ。1968年大会は、本命視されたクラークが、4月にドイツ・ホッケンハイムのF2レースで事故死。優勝したのは、ボビー・アンサー(1934~2021)。

 インディカーの名門アンサー家の一人で、これがインディ500初勝利。翌年には、もう一つの名門アンドレッティ家のマリオ(1940~)が勝ち、1970、71年は、ボビーの弟、アル・アンサー・シニア(1937~2021)が4人目の連覇。名門ドライバー3人が4年連続で優勝する。

 1977年にフォイトが前人未到の4勝目を挙げると、78年にはシニアが3勝目、79年にリック・メアーズ(1951~)が初優勝し、インディ500史上に残るレジェンドが顔を揃える。この年は、インディの統括団体USACから、CARTが反旗を翻し、2つのシリーズが並立する状況となったが、多くのドライバーは、CARTを選び、USACにはフォイトが残り、7度目のチャンピオンとなったものの、この年限りでシリーズは消滅してしまう。



 フォイトは、CARTに舞台を移すが、インディ500メインのスポット参戦で、フル参戦は79年を以て終わる。1983年の第67回大会では、ルーキーのアル・アンサー・ジュニア(1962~)が終盤、4勝目を狙うシニアのサポートに回るが失敗するも。史上初の同時2世代出場を果たし、翌84年には、元F1チャンピオン(72、74年)のエマーソン・フィッティパルディ(1946~)とマリオの息子、マイケル(1962~)が初出場。新時代の様相を呈してくる。

 86年には、ボビー・レイホール(1953~)が初優勝、そのままシリーズも制し、合計3度のチャンピオンを獲得。87年は、シニアが47歳360日の史上最高齢優勝を果たし、フォイトと並ぶ4度目のインディ500ウィナーに。89年のレースでは、198周にアンサー・ジュニアとフィッティパルディのタイヤが接触、ジュニアはスピン、クラッシュ!フィッティパルディがブラジル人として初優勝を果たした。F1チャンピオンの経験者の優勝はクラーク、ヒルに次ぎ、3人目。

 91年には、初の日本人ドライバー、ヒロ松下(1961~)が参戦、アンドレッティは、マリオ、2人の子どもマイケル、ジェフ(1964~)、甥のジョン(1963~2020/大腸癌で死去)と4人が参戦。レースはメアーズが制して、フォイト、シニアに次ぐ、4度目の優勝を果たす。

 92年がフォイトとメアーズにとって最後のレースとなり、フォイトは35年連続出場、57歳128日は今も破られない最年長出走記録(2人の引退表明は、翌年のインディ500にて)。そして93年の注目は、現役F1チャンピオンのナイジェル・マンセルの参戦。マンセルのライバルだった3度のチャンピオン、ネルソン・ピケは、前年にプラクティスでクラッシュして骨折、この年もリタイアでリベンジならず。注目は圧倒的にマンセルだった。

 レースをリードしたマンセルだったが、終盤のリスタートでポジションを失い、3位フィニッシュ。ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。そのままシーズンチャンピオンを2度目の優勝を果たしたフィッティパルディと争い、史上初のF1、CARTの2年連続チャンピオンとなる。日本のF1中継でも、マンセルの動向は注目され、インディカーシリーズが注目される大きなきっかけになったと言って良いと思う。

 94年にシニアが引退表明。その55歳の誕生日にアンサー・ジュニアがインディ500の2勝目を飾り、引退に話を添えた。4勝を挙げたフォイト、メアーズ、シニアの3人が立て続けに現役を去った。2位に入ったジャック・ヴィルヌーヴ(1971~)がルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。翌95年にヴィルヌーヴがカナダ人初の優勝を果たした。松田秀士(1954~)が日本人2人目の決勝進出。

 2位フィニッシュしたエマーソンの甥、元F1のクリスチャン・フィッティパルディ(1971~)がルーキー・オブ・ザ・イヤーに。ヒロ松下が10位。1996年は大きな動きが起きる。CARTから、トニー・ジョージ(1959~)が1RLを設立して、アメリカのオープンホイールが分裂。そのシーズンの中心にインディ500を据えたため、CARTは、ミシガン・インターナショナルスピードウェイで、同日にUS500を開催することになり、選手の多くはそれに参加する。

 インディ500のPPは、後のNASCARチャンピオン、トニー・スチュワートが獲得。レースは、バディ・ラジアが制し、ルーキーは何と17人。スチュワートが、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。松田が当時の日本人最高の8位完走を果たす。シリーズの分裂は10年以上にも及び、インディ500の存在感も低下することになる。

 CART勢が戻ってきたのは2000年。その間、CARTチャンピオンを輩出したチップ・ガナッシがインディ500に参戦。ガナッシのファン・パブロ・モントーヤとジミー・バッサーがレースを支配。前年のCARTチャンピオン、モントーヤがレースを制した。これ以降、CART勢の参加が加速し、2001年、2年とエリオ・カストロネベスが連覇。

 2002年には、ダリオ・フランキッティ(1973~)とトニー・カナーン(1974~)がデヴュー、長く活躍することになる。2003年には、元F1ドライバーの高木虎之介(1974~)がルーキー・オブ・ザ・イヤー。ロジャー・安川(1977~)、中野信治(1971~)、服部茂明(1963~)が出場。長くCARTで活躍してきたマイケルが引退を表明。

 2004年には、インディカーシリーズの解説でお馴染みの松浦孝亮(1979~)が11位フィニッシュでルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。2005年には、ダニカ・パトリック(1982~)が登場。ダン・ウェルドン(1978~2011)と優勝争いを展開、4位に終わるが、女性初のリードラップを獲得し、ルーキー・オブ・ザ・イヤーに輝く。

 2006年のレースでは、マイケルが復帰。息子のマルコ・アンドレッティ(1987~)を先行させ、優勝の為にサポートするが、サム・ホーニッシュ・ジュニア(1979~)が、チェッカー目前で逆転。史上3位の0.0635秒差で初優勝。マルコは、マリオ、マイケルに次ぐ3代でのルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得したが、寸前で優勝を逃すという、劇的なレースに。



 2008年には武藤英紀(1982~)がデヴュー。7位フィニッシュを果たしたものの、6位のライアン・ハンターレイ(1980~)がルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。優勝はガナッシのスコット・ディクソン(1980~)。2010年に佐藤琢磨(1977~)が参戦。現在に至る。

 開催100年となった2011年は、優勝目前のルーキー、JR・ヒルデブランド(1988~)が最終ターンでウォールにヒットし、1輪を失い、惰性で走るところを、ウェルドンがパスして、逆転優勝。2勝目を挙げた。2位のヒルデブランドは、文句なしのルーキー・オブ・ザ・イヤーだったが、悲運は、ウェルドンを襲い、シリーズ最終戦:ラスベガスで多重クラッシュに巻き込まれ、事故死。

 この年はフル参戦ではなく、スポット参戦で、ダニカが抜けたアンドレッティ・オートスポーツとの複数年契約が決まったばかりの悲劇だった。ウェルドンは、2012年デヴューするシャシーの開発に関わっており、このシャシーは、DW12と名付けられた。

 2012年も最終ラップでの劇的な幕切れで、リードするガナッシのフランキッティとディクソンを追いあげた琢磨がファイナルラップのターン1で並びかけたところでクラッシュ!イエローチェッカーとなり、フランキッティが3勝目。その3勝はいずれもイエロー、もしくは途中終了によるものというのも珍記録ではある。

 2014年は、シリーズのディフェンディングチャンピオンであるハンターレイと4勝目を目指すカストロネベスが大激戦を演じ、史上2位の僅差である0.060秒差でハンターレイが優勝を飾った。観ていて大興奮していたのを覚えている。2004年のNASCARチャンピオンのカート・ブッシュ(1978~)がアンドレッティから参戦。同日開催のコカ・コーラ600との<ダブル>に挑み、6位フィニッシュ。ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得している(本書では、ペンスキー陣営から参戦と誤記)。

 2015年には、CARTから、F1、NASCARを経て、インディに復帰したモントーヤが2000年以来の2勝目を挙げた。15年ぶりの優勝は、大会史上最も離れたもの。ジェームス・ヒンチクリフ(1986~)はプラクティスで大クラッシュ。サスペンションがカウルを貫通し、コクピットの足に刺さる大怪我を負ったものの、翌年の開幕戦から復帰することが出来た。

 翌16年は、第100回の記念大会は40万人の観客で埋め尽くされ、優勝の栄誉に輝いたのは、アレクサンダー・ロッシ(1991~)で、レース終盤の燃費レースを制するという、予想もしなかった展開に。F1での実績も殆どなかったが、この優勝以降、一気に開花。2018年は2位、19年は3位とシリーズチャンピオンを争う存在となっていく。

 そして本書の最後、2017年は琢磨がカストロネベスとの激戦を制し、日本人初のインディ500ウィナーとなった。現役F1ドライバーのフェルナンド・アロンソ(1980~)が、モナコGPを欠場しての出場も話題となり、エンジントラブルでリタイアしたものの、3位フィニッシュしたエド・ジョーンズ(1995~)を抑えて、ルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得した。

 僕はレース終盤のマルチクラッシュ以降、リアルタイムで観ていたんだけど、GAORA実況の興奮ぶりに逆に冷めていたと言うか、信じられない思いで淡々と受け止めていた。ビクトリーレーンに向かう琢磨を祝福するエリオ、牛乳飲み後に駆け付けたフランキッティ。中継では映らなかったが、フォイトも駆け付けた写真が残っている。

 それ以降は簡単に。18年はウィル・パワー(1981~)、19年がシモン・パジェノー(1984~)、20年に琢磨が2勝目(無観客開催)、そして今年は、カストロネベスが4勝目を挙げ、フォイト、シニア、メアーズに次ぐ快挙を遂に成し遂げた。ファンから愛されるエリオの優勝に観衆は大変な騒ぎで、恒例のスパイダーマン、パフォーマンスを見せた。

 4人は記念撮影を行ったが、シニアは12月9日に死去。兄で3度インディ300を制覇したボビーも5月2日に老衰で亡くなり、アンサー家のレジェンドが2人逝った。シニアもエリオの快挙をインディアナポリスで見届けることが出来て良かったと思う。カストロネベスには前人未到の5勝目を目指して貰いたい。

 本書にはアメリカン・オートレーシング慨史という、AAA時代から、USAC、CART・・・そして、今のインディカーシリーズまでの歴史の解説があり、レース年表、歴代シリーズ年間ランキング、出走全ドライバー一覧、インディ500関連の死亡事故など、豊富な資料が満載。全10巻のF1全史の著者であることは、読んで初めて知ったけども、インディ500の歴史を知るには格好の本だと思う。税抜き8000円は高くない。