ファンジオと並ぶF1草創期のレジェンド、アルベルト・アスカーリ。ファンジオ不在(負傷によって1年間欠場)の52年は、第3戦のベルギーGPから第8戦イタリアGPまで6連勝でシーズンを終えて、ぶっちぎりでチャンピオン獲得。
53年も開幕戦のアルゼンチンGPを制して、連勝を7に伸ばし、当時F1GPに形式上組み込まれていたインディ500を欠場(殆ど参戦するF1ドライバーはいなかった)、続くオランダ、ベルギーと連勝。
連勝を9とするか、7とするかで議論はあるものの、この2年間のフェラーリが圧倒的に強かったことを割り引いても、アスカーリの2年間の快進撃は特筆に値する(7とする場合、2004年のシューマッハとタイ記録)。
フランスGPとドイツGPでは優勝を逃したものの、第8戦となるスイスGPでも、予選2位から優勝、シーズン5勝目を挙げた。
アスカーリの運命は、フェラーリを離れて、ランチアと契約したことで一気に暗転する。
<1953 Swiss Grand Prix>
54年シーズンのマシン開発が進まず、ランチアのマシンで走ったのは最終戦スペインGPのみ。シーズン途中にマセラティで2戦、古巣フェラーリで1戦走らせているが、いずれもリタイア。
予選で1,2,3位に1回づつ食い込んでいるのはさすがだが、レースでは4戦すべてマシントラブルでリタイア。
アスカーリは、53年の最終戦モンツァでも、PPでスタートするも、アクシデントでリタイア。結局、このスイスGPでの優勝を最後に、一度も完走することが出来なかった。
スイスGPは、55年6月11日のル・マン24時間レースの大事故を機に、スイスではレース開催を禁止する法案が可決されて、GPがキャンセルされ、復活する見込みは今でもない。
アスカーリがモンツァのテストで事故死したのは、その直前の5月26日だった。