日本人2人目のフル参戦ドライバーである鈴木亜久里さんのラストシーズンとなった1995年。94年は、パシフィックGPのみジョーダンからのスポット参戦という事実上の“F1浪人”。
リジェからのF1復帰は、2年ぶりのフル参戦となる筈だったものが、マネージングディレクターであるトム・ウオーキンショー(1946-2010)が、スポーツカー時代に懇意にしていたマーチン・ブランドルをねじ込み、シェア・ドライブ。
参戦は、開幕3戦と、ドイツ、パシフィック、日本GPのわずか6戦に留まり、メインはブランドルがステアリングを握った。
つまりは、無限エンジンを獲得するためにカッコつきで起用されただけで、リジェでは完全に冷遇されてシーズンを送る。
<Aguri suzuki car fire (Germany 1995)>
そんな中、ドイツGPで6位入賞。1991年の開幕戦アメリカGP以来、4年ぶりの入賞であり、結果的にこれが最後のF1でのポイント獲得となった。
1992,93年のフットワーク時代にアルボレート、ワーウィックの両ベテランに対して完全に後れを取り、ポイントを獲得出来なかった亜久里さんには、失望させられ続けていたとは言え、さすがに95年の苦境には同情したもの。
加えて、最後の晴れ舞台となる筈の鈴鹿で予選2日目、S字コーナーで大クラッシュして、肋骨骨折・肺挫傷の重傷を負い、決勝も走れずに引退。
あまりにも寂しいキャリアのフィナーレだった。