昨日は、世界最高のフィギュアスケートコレオグラファー、ローリー・ニコル氏のインタビュー記事について感想を書きました。
世界最高つながりで、今日は、世界最高のコレオグラファー、タチアナ・タラソワ氏のインタビュー記事について、感想を書いてこうと思います。
元サイトはこちら→ http://www.itogi.ru/Paper2007.nsf/Article/Itogi_2007_02_11_00_4113.html
URL見るとおわかりだと思うのですが、新しい記事じゃないです。2月11日の記事。ずいぶん以前に、たしか『Golden Skate』フォーラムで紹介されていた記事だったのですが、東京ワールド関連の記事じゃなかったんで、「そのうち感想書こう」と思って、そのまんまになってた……。
すみません。
記事のタイトルは「Татьяна первая」、英語に直すと、「Tatiana the first」日本語的には、第一人者タラソワ、みたいな感じでしょうか。世界屈指のチャンピオンメーカーであるタチアナ・タラソワ女史の、幼少時から語り起こされた、かなり長~いインタビューです。
本文をお読みのまえに、あらかじめお断りしておきますが、原文ロシア語で、機械翻訳大明神のお世話になりながら読解したものの、わかりにくいところも多くて、灰原の羽ばたく想像力で、かなり文意を補っております。
もしかしたら、読み取り間違ってる……かも……。
そのへん踏まえていただきつつ、それでは本文にどうぞ!
インタビュー冒頭、タラソワ女史は
「私は、2位を恥じるようにと父に教えられて育ちました。私は自分がとった銀メダルや、銅メダルの数を知りません。私は金メダルしか数えなかったから。私の唯一の目標は勝利でした」
と、語ります。
タラソワ女史の父上、Anatoly Vladimirovich(アナトリー・ウラジミロビッチ、とお読みするんですかね)は、アイスホッケーの著名な指導者で、タラソワ女史は、5才のときにお父さんに連れられてスケートを始めたそうです。きっと男の子だったら、アイスホッケーを習うことになっていたんだろうな。
いまだったら女の子もアイスホッケーしますけど、タラソワ女史は1947年生まれですから、当時女子がホッケーって選択肢は、なかっただろうと思います。
幼いタチアナは、優秀なフィギュアスケートコーチ、エリーナ・チャイコフスカヤ女史に預けられます。チャイコフスカヤコーチのもと、ペアスケーターとして順調にキャリアを積み重ね、国際大会でも勝利をおさめるようになりますが、18歳のとき悲劇に見舞われる。肩の筋断裂……いまもこの怪我によって、タラソワ女史の腕は肩より上に上がらないといいます。タチアナ・タラソワ選手は、フィギュアスケート選手として再起不能を医師に宣告されるのでした。
タラソワ女史が、若いころペアスケーターだというのは、けっこう有名な話なんですけど(そのときライバルだったのが、プルシェンコ選手のコーチアレクセイ・ミーシン氏と、川口悠子選手のコーチ、タマラ・モスカヴィナ女史とのペアだったそうです)、なにしろ古い時代の話なので、当時の映像は残ってないんですよね~。と、思ってたら……ありましたよ、ご本人の公式サイト(http://www.tarasova.ru/
)に選手時代の写真が!!!
こちら→ http://www.tarasova.ru/photo/archive/tarasova/37.jpg
わはははは。少し育ちすぎですね。こちら→ http://www.tarasova.ru/photo/archive/tarasova/11.jpg
ジュニア時代。かわいい。
ペアスケーター時代の写真がこちら→ http://www.tarasova.ru/photo/archive/tarasova/12.jpg
なんか男性の衣装に時代を感じる……ふつうにスーツみたいですよね。女子の衣装も、昔は伸びる素材とかがなかったら、動きやすく作るのが大変だったって、たしか岡本治子コーチ(旧姓石田。てるてる家族の春子ねえちゃんのモデルになられた方です)のインタビューで読んだことがある。
選手として未来を断たれたタラソワ女史はコレオグラファーになりたいと希望しますが、お父上の「うちの家系から芸術家は出たことがない」という鶴の一声で、身体文化研究所に進むことになるのでした……か、かわいそう。
結局、コーチになったタラソワ女子は、チャンピオンたちのプログラムを振付けることになります。ちゃんと芸術家になったじゃないですか。お父さんの予言は外れたかな?
「いま、自分は、人生の交差点にいる気がします」と、タラソワ氏は言います。
かつてタラソワ氏は故国を離れ、アメリカを拠点して弟子たちを育成してきました。故国からの援助はいっさいなく、彼女の収入は弟子たちが彼女に支払うコーチ料だけだったそうです。
それだけ聞くと「あたりまえじゃん」と思いますけど、さにあらず。ロシアの特殊なスケート育成事情がここに関係してきます。いまだに国民の平均年収が高水準とは言いがたいロシアでは、才能ある選手の家庭にスケート教室に通う財力があるとは限らない、というか、まず財力は「ない」のです。
アレクセイ・ヤグディン選手は母子家庭の出身、エフゲニー・プルシェンコ選手も実家は貧しかったとか。貧しく才能のある選手たちは、コーチたちと「契約」をするのがロシアでは一般的だったそうです。つまり、選手たちが国際大会で結果を出すようになったら、賞金の1/3をコーチにバックする。結果が出ないうちは、遠征費、場合によっては生活費を含めたすべてのかかりをコーチが負担することになります。もちろん、契約したもののまったく結果が出ない選手もいるわけです。
若くしてスケート指導者として名を成したタラソワ氏ですが、いつごろからか、ロシアスケート連盟で、どういう事情か、孤立していたらしい。連盟から援助がない以上、成功したひとりやふたりのスケーターからもらえるコーチ料で、ほかの子どもを無料で教えるというシステムには無理があります。北米で、まっとうなコーチ料を支払える選手を教えて収入をえる、というシステムにシフトする必要があったのでしょう。
タラソワ氏が母国から冷遇された、あるエピソードが紹介されています。
ソルトレイク五輪のあと、ロシアではメダリストたちを招いた晩餐会がクレムリンで開かれたそうです。なんと! そこに、なぜかタラソワ氏とヤグディン選手は招かれなかったそうです!
ジョン・F・ケネディ空港で、モスクワの晩餐会に呼ばれて帰国するタマラ・モスカヴィナコーチに偶然行き会ったために、タラソワ女史は自分たちが無視されたことを知ります。それはミスだった、と説明されたそうですが……あの! 『仮面の男』のヤグディンの招待を忘れるなんてねぇ……どんな事情があったのか。もはや過ぎたことですが。
「アメリカは母国が与えてくれなかったもの……リンクやお金、毛皮などを与えてくれた」と語るタラソワ女史は、自分がもういちどロシアに住むことになるなんて思ってなかったみたい。「誰が辱められることが好きでしょうか」、当時のロシアスケート連盟の心無い仕打ちによって、傷ついたとも語っています。
そんな日々から時は過ぎて、タラソワ女史は、ロシアスケート連盟のアドバイザーとして帰国することになりました。人生の交差点を、ふたたびロシアに向かって歩き出した、のです。
とはいえ、タラソワ女史が、いままでロシアのライバルをたくさん育ててきたのも事実。
「あなたはシズカ・アラカワを、我々に残念に育てました」
と、つっこむインタビュアー。大してタラソワ女史は
「たしかに、私は彼女を教えていました。 イーラ・スルツカヤは、彼女に勝ち、トリノで優勝するためにはもっと上手く滑らなければなりませんでした」
と、一刀両断。厳しい~。
タチアナ・タラソワ女史は、6年まえに、自分の半生を語った自伝「美女と野獣」を出版。評判を呼んだそうです。
「フィギュアスケートについて多く書かれた本ですから、『美女』というのはわかりますが、『野獣』というのはなんですか?」とたずねるインタビュアー。タラソワ氏はこう答えます。
「スケーターの足元で生きていて、牙を剥くもの。ときにスケーターはそれに口づけます。アレクセイ・ヤグディンがそうしたように。……それは氷です」
フィギュアスケート界最大のチャンピオンメーカーのひとり、タチアナ・タラソワ女史。偉大なチャンピオンたちに頼り切ってたせいで、いまや空前の低迷期に突入してしまったロシアの現状を嘆きつつ、彼女はいま、つぎの『猛獣使い』を育もうとしているのでしょう。フィギュアスケート大国ロシアの復活の日……ちょっと怖いな! と思いつつ、楽しみです。
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