このお話「エネウス~雨の夜話~」は続きものです。
プロローグ(http://ameblo.jp/haibaran/entry-10024532498.html
から先にお読みいただけると、うれしいです。





「……自分が誰か、わかんない……だってぇ?」
 若者の告白に、炎の向こうがわの男も驚いたようでした。
 いえ、炎の向こうがわの男、というのはもう正しくありません。若者が奇声を発した瞬間、男は若者の枕辺に駆けつけてきたのですから。
 若者の気分が悪くなったわけではない、と知って一瞬は安心したらしい枕辺の男ですが、若者が
「私、自分が誰かわからなくなっちゃったみたいです」
 と告げると、黒い切れ長の目を丸く大きく見開きました。
 目。
 そう。この枕辺の男は、砂漠の民のように鼻から下を黒い頬布で覆っており、目しか見えませんでした。目を見開くと同時に、もしかして口も開いていたのかもしれませんが、若者には見てとることができなかったのです。
「恐れ入りますが、私が誰か、ご存知ありませんでしょうか?」
 頬布の男に、若者は礼儀正しく問いました。どうやら若者は、礼儀作法をきっちりと教え込まれた生まれ育ちのようです。頬布の男は、しばらく考え……首を横に振りました。
「いや。俺もあんたが、屋根から足を滑らせて川に落っこちたところに、居合わせただけなんだ」
「……屋根?」
「今夜は雨が降ってるから、足が滑りやすかったんだよ」
 頬布の男は説明しました。
 たしかに。
 言われてみれば、屋根を打つ雨だれの音が聞こえます。しかもいまは夜らしい。
 雨の夜に屋根などに上がれば、視界は悪いし足元は悪いし、そりゃあ滑って落っこちもするでしょう。
 だけど、なんで?
 なんで自分は雨の夜に屋根なんかに登っていたんだ?
 自分は、屋敷の雨漏りにでも悩まされていたのでしょうか? どうしても屋根を修理したかったとか。それとも自分って、もしかして、フレイル人?
「なんで屋根に上がってるとフレイル人なんだ」
 若者は、考えていることを全部口に出していたようです。頬布の男が、訝しげに訊ねます。若者は言いました。
「だってフレイルには道がなくて、フレイルの人はみんな屋根を歩いてるんですよ」
「はあっ? ……どういう与太話だ、そりゃあ」
「与太じゃありませんよ。フレイル生まれの、私の父から聞いたことなんですから、絶対に本当です」
 そうです。若者の父親はカレンデュラの向こうニレ山の向こう、霊峰チャタムを擁する遠いフレイルから来た人です。若者は小さい頃から父親に、フレイルのあれこれを聞いて育ちました。
 フレイルには道がないとか、フレイルの人はみんな必殺技を持っているとか、フレイルの男は花街の太夫に弟子入りし、お茶お花歌舞音曲を修めなければお婿に行けないとか、いろんなことを教わりました。
「……ひでえホラふき親父だな」
 頬布の男はあきれ果てた声で言いました。若者はムッとしました。
「失敬な! 私の父をホラ吹きだなどと、なにを根拠に言うんです!」
「いや、親父さんを信じてるなら、いいけど」
 頬布の男は枕辺から立ち上がりました。
「じゃあ、俺ぁ、行くぜ」
「ええっ!? もう!?」
「親父さんのこと思い出したくらいだから、自分のことだって思い出したろうよ」
「え……っ」
 若者は声を詰まらせました。
 たしかに、父親のことは、思い出した。フレイル人だったことも、その声も、顔も、思い出した。
 ……だけど、名まえは?
 父親の名まえも、父親に呼ばれていたはずの自分の名まえも、まだ、思い出せないままです。
「……思い出せないのかよ」
 頬布の男は困ったように言いました。若者は負けずに困った顔でうなずきました。
「申し訳ありませんが、いましばらく、面倒を見ていただけると助かります」
 頬布の男は、眉を寄せました。しばらくそのまま、枕辺に突っ立っていましたが、小さく息をつくと、言いました。
「わかった。もう少し付き合ってやる。だけどちょっと離れたとこに座らせてもらうぞ、いいな」
「もちろんですよ」
 枕辺でも、離れてても、残ってくれるならバンバンザイです。若者は何度もうなずきました。
 頬布の男は、床に散らばっている壺を片付け、小屋の入口近くの壁に背をもたれて座りました。
 若者は言いました。
「さっきから不思議に思っていたのですが、この部屋には、どうしてこんなにたくさん壺が置いてあるのでしょう」
「ええ? ……ああ」
 男はこともなげに言いました。
「そりゃ、ここはオキシパ漁師の漁小屋だから」
「…………えええええええええっ!」
 若者はのけぞって悲鳴をあげました。頬布の男は飛び上がりました。
「どうした!?」
「オ、オオオオオ、オキシパ漁師って、じゃあ、そ、その、つ、つつつつつつつつ、壺は、もしや」
「そりゃ、オシキパ漁の、仕掛け用の壺だけど……。どうした、あんた、いきなり蒼褪めて。気分でも悪くなったのか」
「い、いえ……。申し訳ありません。ご心配をおかけして。私……私は、その……オ……オオオ、オキシパがどうも、苦手なようです」
 若者は息も絶え絶えに言いました。頬布の男はしばらく目を瞬いていましたが、しばらくして。
 笑いだしました。
「い、いやすまん、笑うつもりはなかったんだ。だ、だがあんたが、あんたみたいな人にも怖いもんがあったなんて、し、しかもそれがオキシパだなんてさ、お、おかしくて」
「お好きなだけ笑ってくださいもう。自分でも情けないと思うんです」
 若者は泣きそうになりながら言いました。こうしているいまにも、積み上げられた壺のどこかから、漁師が獲り忘れた緑色のオキシパが出てくるのではないか……想像するだけで、肌に粟が立ちます。
 若者の気持ちも知らず、頬布の男はしばらく、無遠慮に笑いつづけていましたが、ようよう笑い納まると、こう言いました。
「だけど、良かったじゃないか。オキシパのおかげでさ、あんた、自分のこと、ひとつは思い出せただろ」
「……え」
 言われてみれば、そうです。
 目が醒めたときは、自分はどこの誰かもわからなかったのに、いまでは、父親がフレイル生まれであること、オキシパが大嫌いなこと、ふたつも思い出しました。大きな進歩です。
「その調子で、ちょっと考えてみたらどうよ。ほかにどんなものが嫌いだった?」
「嫌いなもの……と急に言われても」
「好きなものでもいいさ。たとえばさ、いま、ちょっと腹減ってるだろう。濡れると疲れて腹が減るからな。なにが、食べたい?」
「……そうですね」
 若者は考え込みました。
 さまざまな食べ物を思い浮かべてみます。肉汁たっぷりの串焼き。ぶどう酒で煮込んだシチュー。美味しそうだけど、ううむ、どうも食欲が湧きません。いまはもうちょっと軽いものが食べたいみたい。燻製肉とピクルスを挟んだサンドイッチ。いい感じ。でももうちょっと軽いものがいい。レモンを軽く絞ったサラダに、パンは……そう、三日月型の、ふわふわ軽いクロワッサン! 若者のおなかがぐうとなりました。焼きたての、バターの香るクロワッサンに、泡立つミルクをたっぷり注いだカフェオレ! 美味しそう!
「クロワッサンか。さすが貴族は好物も高級だな。俺はもうちょっと腹に溜まる、『東雲』のミートパイとかのほうが好きだけど……」
 若者の連想に、頬布の男がケチをつけます。大きなお世話です。
 それにしてもこの男、屋根から落ちた若者を偶然拾った、というわりには、若者の正体について、なにか知っている感じの発言が多いようなのですが……?
 若者が、ちょっぴり不審に思った、瞬間でした。
 クロワッサンの三日月型が、若者の脳裏から、別の記憶を引っ張り出してきました。



《つづく》





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