べしんべしん。
今日は珍しくタイトルのまんまです。
鞭の…じゃなくて無知のベール。
私は功利主義をある程度支持していますから、カントのような厳格な道徳を信じてなんていません。
カントは嘘ついちゃだめって言うんです、たとえ方便とたとえられる類の物であっても。
みんなが幸せになればいいじゃありませんかー。
問題は功利主義とマイノリティの権利(ある種の古典的リベラリズム)と社会保障の正当性を一括して述べるだけの論理が私の中にないことです。ちゃんちゃん。
古くから語られる「寛容」でもいい気がするんですけど。今年のセンターにも出ましたし。
さて、ロールズが提唱している無知のベールは、ある程度幸せな社会に必要な条件を導き出すための仮定ですが、この過程に多少の疑問を抱きましたのでぐだぐだぐだぐだ書きたいと思います。
無知のベールは、自分の身分、能力、あるいは他者のそれを知らない状態の仮定です。
ただし、人間には平等な理性が与えられている、という前提です。
そこで集団は必ず自分にとって不利益がもっとも少ないような社会を望むというのです。
彼が出した結論(弱者への保障を組み込んだ社会)は、至極もっともだと思ったのですが、この仮定はそもそもなりたってるのかしら。
問題は、無知のベールの裏側で、人は自分の能力を自覚するより他にないのではないか、ということです。
社会の在り方についてある程度の知識を持った人間を仮定することはそもそも無理が過ぎると思います。
では今ここにいる人間たちが、自分が何者であるか、という記憶だけを失ったまま思考し、意識の疎通を図ったとき何が起こるのでしょう。
Aさん「うーん俺はできるだけ損はしたくないなー」
Bちゃん「え、社会を選ぶの、え?」
Cくん「ぼくむずかしいことわかんなーい」
Dさん「理想的な社会の在り方とはつまり(ry」
Eさん「めんどくせええ」
ぶっちゃけ無理じゃね?
途中で気づく気がします。「あ、おれ少なくとも隣の人よりバカかもしれない」
自分の思考パターン(性格を含む)とか、相手の話を理解できる能力とか違っちゃうんだから、平等な理性の前提って現状にそぐわない気がするよ!
だってもしそうだとしたら、過去の歴史を作った先人たちだって同等な理性をもっていたわけで、社会の「現状」に無関係に新たに理想的な社会が構築されてしまうじゃないか!
教育という恣意的な要素が「現状認識」、「改善点の想起」を導く限り、人はそもそもベールの裏側で平等であることさえ許されてはいない気がするのです。
いや、わかりますよ、無知のベールは説明のための方法であって、空想的な世界であることは。
そういう世界だったら絶対にこうなる、って言いたいだけだってことは。
それでも人は、利益を求めるのに最適な方法さえ、誰もが等しく理解しているとは思えないのです。
国を超えた文化を仮定すればそれは明らかでしょう。
何が利益であるかが違う状態の人々を寄せ集め、彼らが意思を伝えあったとき、何が生まれるんでしょうか。
ああ、身体的な基本的欲求まで違うとは言いません。もっと文化の影響を受ける範囲での話です。
なんつーかね、理性だけにのっとった人間観ってのが多少ふるーい気がするのよ、うん。
もっと人間アバウトだと思うのよねー