ポチしっぽフリフリです。

「アンダーグラウンド」一気に読み終えました。
そして
「約束された場所で」(信者側インタピュー)も一気に。

これは基本、本が読めない私には異例の事態です。(笑)
いつも10時半にはネムネム、、、(θωθ)/~のわたしが
久々に12時すぎても眠くないくらい
(興奮しやすいのは質でキャンプのときもそうだったけど。。)
とても乱暴なばーーーっと読みだけど。

モモがきっとよい話しを聞かせてくれると思うんで、それを楽しみにするとして
(得意技人任せ)

アンダーグラウンドもモモが紹介してくれるだけあって
ああ、、わたしはこんなこと知らなかった、、、
(あのニュースはかなり興味があったはずだけど)
思いをはせることもなかった、、と今更知って、、涙がでたけど

当然、当然、「じゃあ、どういう教団なの?どういう人が?」というのは
それ以上に気になり「約束された場所で」は
実はそれ以上にぐいと磁力に惹きつけられて読みました。

ああ、、、人種としてはわたしは世の中の人間を2つに分けるなら
前者より後者により近い人間であることを認めざるを得ないような気持ちでした。

「もしそこに自分の感覚と相容れないものがあったとしても、自分の感性や考え方が全てではないし、解脱者が「それが正しい」と言うのなら、そこには何かしら自分ではうかがい知れない意味があるのかもしれないと。オウムの信者ってそういう考え方をするところがあるようです」
、、、、、、、自分のことを言われていると思いました。
そして、そこに集う人のよい面も、欠点もかなり自分の中に重複したものを見ました。
、、って多少なりともキャンプで私を知るみんな、「ああ、ポチ、そうねえ。わかるよ」って
思うかも知れないくらいだよね。。

悪、、これについての取り扱いをどうするか。

オウム真理教にはたまたまわたしは縁がなかったけれど
(そこまで頑張りやさんではないくらげなので、それはもっともかな)
考えてみれば
自分がそれとよく似たような場に引き寄せられていって、
そこで似たようなある一定傾向を持つ人たちが集いやすいことを実感し
そこには実際「エホバの証人」に縁のある人が意外に多いと言うことにも
後年ショックを受けたりしました。
(そういった経緯で、その当時、エホバについては結構調べました。)
10年近くずっとずっと疑問で
とてもその学びに惹かれながら一方で
ずっと強烈に警戒していた問題
「よきものを求めて集うこの場で何故これほどまでにみんな病むのか」
その答えを自分なりに得たとき
(答えをえるのにキャンプの意味は大きかった)が
そこを去るときでしたが。。。。
そこが抱える自覚なき悪の存在には、
その意味で自分が知らず知らず加害者だったことを
(いや、実はちゃんと「知っていた」のを、
できるだけ加害者にならないように
そして被害者にもならないように
完全に身をなげうつこともできず
しかし「何か」を感じてそこから立ち去ることもできず
ジレンマの中で、恐る恐るコウモリくんのように結果中途半端に行動し、
そこに生まれる犠牲者については本人の弱さかと仕方ないか、と考えていた。
そもそもの構造的な問題に気付くのにあまりにも時間がかかった。)
ちゃんと逆の立場で味わうべくその後もかなり苦しみました。

娘の思春期にあたって、
忘れていた自分の中の暗い思春期の痛みを思い出し、
自分の娘にすっかり自分の当時を忘れ「天使」をもとめる愚かさに
今更ながら改めて気付かされたり、、ね。

いまできる精一杯は、自分の中の悪の可能性、
その存在から目をそらさないでいること。
そしてそれを味わい、許すことなのかな、、、と
そしてとにかく自分で立つということ、、
読後の興奮さめやらぬ思考もおぼつかぬ頭で思うのでした。

人生をどちらかというと美しいものだと愛おしむことができるのは
自分が感じている以上に幸せなことかもしれない。。
青い地球がこんなに美しいのは
そこによきものだけでなく悪も豊かに内包されているから、、ね。