明太子です音譜

これまで、ずっとファンを自認していたのに
なぜかキチンと本を読んだことがなかった
宇野千代を今日一挙に4冊読めた…


タイミングの良いことに
この4冊(古本)は昨日届いたばかり


さらにタイミングの良いことには

沖縄本島直撃の台風が来るってことで

昼過ぎに帰らなきゃいけなくなったので
食糧と水を買い込んで、ベッドに転がりながら
うふふと読みふける至福の時間… 


東京の実家から台風で危ないから外に出るなとの
ありがたい携帯メールの返信を打つ時間さえモドカシイ…


どれも短編集だけど


『幸福を知る才能』集英社文庫が、面白かった

というか参考になったと言うべきか

その中で、特に印象に残ったのは


谷崎潤一郎のことを書いた件(くだり)…


若い頃の彼の作品の読むに堪えない未熟さに驚きつつ
それにもかかわらず後年、
谷崎が傑作を生んだ秘密というものを発見した部分だ。


彼が自分自身を信じたさまを


 「自信などという生半可なものではない。
 自己の持っているものを、神を信じるような
 念力を持って信仰することなのだということを
 私は改めて知」、「異常な感動にとらえられた」


というのだ。そして


 「人はおかしいと思うかもしれないが、ここ2,3日
 私はこのことで頭が一ぱいになった。
 もう70歳にもなって、気がついても遅いと
 言われるかもしれないが、私にも、この私自身にさえも
 ほんのちょっぴり才能があるのだとしたら、
 それを恃む(たのむ=あてにする)気持ちに
 なぜならないのか。

 あの競馬場で見た、一か八かの、あの虚しい、
 美しくない顔つきで、生涯を終わるのはいやだ、
 と私もまた思ったからである」
と。


これは恐らく彼女のものすごく長いスランプの後のことだったと思う。


私は、この瑞々(みずみず)しいとしか言いようのない
ほとばしり出るような感性に打たれた

必死で欲しいものをつかみ取ろうとする

正直な、真正面な姿に打たれた



と同時に考えたことがあった


自分さえも信頼し切れない

そういう自分自身が引き寄せ、実現させた目の前の現実


例えば「信じられないようなヒドイ人がいる」という現実は

やはり、自分自身を信じ切ってない、信じ切れていない自分が

他人に「裏切り」を演じさせ、自分に見せているであろう「現実」

に他ならない、という確信にも似た思いである


自分さえ信じていないのに

なぜ人に期待する?

なぜ裏切られたような気持ちになる?


自分に期待して

自分を裏切ってしまうかもしれないという

怖れから目をそむけたいからか?


問うべきは、他人の非道ではなく

自分への一途な信頼の多寡であろう