モモです


またまた”光”つながりのテーマで書きたいと思います。


昨年秋の茨城合宿の時にも、炒飯先生が話していたことですが
今回のインドキャンプでも同じ話が出てきました。

「主役、監督、脚本家、演出家、すべてはその話し手の役割、
そして私たちは、ただその人の人生を照らす照明係なのです。」


この照明係という役割がどんなものなのか、先生の話を聴いたときには
ピンとこなかった。


以前このブログに、人のお話を聴くことがあり、とっても難しく感じた
と書きました。
そのとき、照明係の役割が、少しだけわかったような気がしました。

たとえば何か質問をされて、それに対して答えるという場合は
わりと簡単にお話ししていただけると思います。

でも、ただ「あなたのことを話してください。」と言われたら
とまどって何を話したらいいのか困ることが多いかもしれません。


真っ暗なところにいて迷っているときに、
正面からまぶしい明りをあてられたら
私ならそれだけでうろたえてしまうでしょう。

逆に後ろから、自分のまわりを照らし出す光をあててもらえたら
その先に自分が進むべき道が見えてくるのではないか、いちょう並木
そんなイメージを得ることができたのです。


「話す」という行為、しかも自分のことをさらけだすような行為を
私たちは日常あまりする機会はありません。
それは、話をしたくないから、という人もいれば、
話を聴いてくれる相手がいない、という人もいると思います。


聴いてくれる相手が現れたときに、どれだけ思うように話せるか、
というのは聴き手の力によるところが大きいのでしょうね。
話し手が、どの方向へでも進めるように、
しっかりとした足取りを確保できるように、
足元とその先を照らしてくれる 『照明係』 が必要なのだろう
と思う今日この頃です。



私はまだまだ未熟な照明係ですが、これから腕を磨いて腕。

多くの人の人生を照らすことのできる人になれるよう、
日々のトレーニングに励みたいと思います走る人