ポチ
です。
今年も春恒例「健康診断」を受けた娘がここ数年毎年の
「視力が落ちてます、病院にいってくださーい」っていう赤紙ならぬ黄色い紙をもらってきたので
重い腰をあげて、よいこらしょと眼科に行ってきました。
そして視力が落ち始めてはや4度目の今年、昨年とは違う(診療時間の都合がよい新しい)病院で
「眼鏡かけたほうがいいです」ときっぱり先生に言われて帰ってきました。
いままでも、すでに眼鏡を強くおすすめされておかしくない視力検査結果だったのですが
本人が「黒板は見えている」といい眼鏡をいやがることもあり
「じゃあいいね。黒板が見えなくて困るようならちゃんと言ってね。」ということで
済ませてきました。
本当は「見えてないはず」の黒板の文字を彼女は「見える」というのです。
正直、眼鏡をかけたくないばかりの逃れ文句かと思ったけど
お医者さんのいうように「勉強できなくて困る」ということはないようで
お勉強は実際よくできてるので、
娘のいうことはどうやら「嘘」とはいい切れないところがある
理解に苦しみました。
が、とにかく今年はどうしましょうね。。ってところで、どうなることやらですが
視力が落ち始めた年に(そのときはさすがに「なんとかしなきゃ!」とめちゃめちゃ焦ったのでした)
買った本のうちの一冊を、昨日改めてぱらぱらめくり直していました。
「近視は治る~心と視力のメカニズム」(ジェイコブ・リバーマン)
みんなも読んでる「病気が教えてくれる病気の治し方」とももちろん通じる内容で
この本をすごく乱暴に簡単に言っちゃえば、
視力は眼の組織の構造一カ所から生じているのではなく、
見る能力は心身のすべてにわたってもっと広く存在しているものだから
心の問題を眼鏡等でごまかすのはかえって問題を抑圧することになるので、
確実であるかのように言われている検査結果や医師の診断を鵜呑みにしないで
眼鏡ははずしちゃいましょう♪ってな内容なのですが
4年前買ったときは、ばーっと流し読みして、そうかそうか眼鏡はいかん、
とにかく全体だ、玉に頼ろう!
とにかくはやくなんとかしきゃと、焦りとその場しのぎのことで精一杯で
問題の奥深いところに思いはいたっていなかったのですが
安易にちょいと玉にたよってみた、ぐらいのことでは状況の根本的な変化までに至らず。。。
その場の親子の焦る気持ちがなんとなく解消しただけで、事態は相変わらず。。
たとえその玉が正しかったとしてもそれとちゃんと共鳴できるだけのものがなければそれまで
事態に良くも悪くもなれっこになってしまった今はちょっと違った心境で
その存在もすっかりわすれて「つん読」状態のこの本から
あらたに新鮮な気持ちで学べることがうんとあるようです。
両目がつぶれても「見る」ことができる例
一方、完璧に機能する眼を持ちながら見ることができない人たち
子どものころ視力を失ったり、生まれつきの盲人が視力を回復するとき、
見ようとすると患者の生命は桁違いの心理学的危機に直面するという話
多重人格者の例から人格が変わると病理が消えたり、生理状態がすっとかわること
わたしも近視なのですが
近視の人は
「あれ(外のもの)は私に対立している。内側に縮んで自分以外のすべてのものとの間に緩衝地帯や安全地帯をつくらないとダメだ」と思い
遠視の人は
「私の方が外界に対立しているのだ。もし、一マイル先に人が見えれば、その人が近づいてくる前に私は対策を講じることができるだろう。」と
自己防衛のために場を自分から遠ざけて外に押し出している
という
ストレスに対する逃避と闘争という二つの選択だという
視力が落ち始めた頃、たしかに娘の人格には大きな変化がありました
彼女なりに一生懸命「適応」しようとしたのでしょう。。。
より学校生活に順応し、いやがっていた学校生活を積極的に楽しむようになり
親としてはある意味扱いやすくなったとすら思えました。
健気といえば健気な、、それで精一杯だったのでしょう
眼鏡をかけるかかけないか
その心の問題を思うとき、
なんとか視力を正常化しようと娘に生活習慣をとやかく言いがちな
私自身が彼女のストレスになりえるだろうし
ろばを水場につれていくことはできても、
本人が心から望まない限り、無理矢理水を飲ませることはできない
あっちこっち頭をぶつけながらもがきながら
彼女が自分の人生を歩むことを応援することしかできない
眼鏡かけても、かけなくても
どっちでもいいよ 好きにしなさい
欲しければ作ってあげるし
嫌なら、お医者さまはあんたに代わってかわしてあげる
今のわたしにできるのはそれぐらいかな、、と思う 無力
それに、娘のことより自分の視力→心の問題だわね
私自身がより大きな視野で愛情を彼女に注ぐことができたら
それも事態を変えるかもしれないしね。きっと。
そうそう、話は全然かわるけど
明太子が前おすすめしてくれた「匂いの帝王」読み始めました。
まだまだ読み始めたところ、、てなかんじだけど
なんで明太子が「衝撃」を受けたか、わかった気がします
出産以来全く手放した「香水」の世界の甘美な魅力にもあらためてちょっぴり酔いしれ
本当に知らない世界の大きいこと
上記の「視力」の話にもつながる「嗅覚」の話
そして、この世の中がより、まっとうに幸せに向かっていきますように、、
なんとなく、そんな風に思わされました。

今年も春恒例「健康診断」を受けた娘がここ数年毎年の
「視力が落ちてます、病院にいってくださーい」っていう赤紙ならぬ黄色い紙をもらってきたので
重い腰をあげて、よいこらしょと眼科に行ってきました。
そして視力が落ち始めてはや4度目の今年、昨年とは違う(診療時間の都合がよい新しい)病院で
「眼鏡かけたほうがいいです」ときっぱり先生に言われて帰ってきました。
いままでも、すでに眼鏡を強くおすすめされておかしくない視力検査結果だったのですが
本人が「黒板は見えている」といい眼鏡をいやがることもあり
「じゃあいいね。黒板が見えなくて困るようならちゃんと言ってね。」ということで
済ませてきました。
本当は「見えてないはず」の黒板の文字を彼女は「見える」というのです。
正直、眼鏡をかけたくないばかりの逃れ文句かと思ったけど
お医者さんのいうように「勉強できなくて困る」ということはないようで
お勉強は実際よくできてるので、
娘のいうことはどうやら「嘘」とはいい切れないところがある
理解に苦しみました。
が、とにかく今年はどうしましょうね。。ってところで、どうなることやらですが
視力が落ち始めた年に(そのときはさすがに「なんとかしなきゃ!」とめちゃめちゃ焦ったのでした)
買った本のうちの一冊を、昨日改めてぱらぱらめくり直していました。
「近視は治る~心と視力のメカニズム」(ジェイコブ・リバーマン)
みんなも読んでる「病気が教えてくれる病気の治し方」とももちろん通じる内容で
この本をすごく乱暴に簡単に言っちゃえば、
視力は眼の組織の構造一カ所から生じているのではなく、
見る能力は心身のすべてにわたってもっと広く存在しているものだから
心の問題を眼鏡等でごまかすのはかえって問題を抑圧することになるので、
確実であるかのように言われている検査結果や医師の診断を鵜呑みにしないで
眼鏡ははずしちゃいましょう♪ってな内容なのですが
4年前買ったときは、ばーっと流し読みして、そうかそうか眼鏡はいかん、
とにかく全体だ、玉に頼ろう!
とにかくはやくなんとかしきゃと、焦りとその場しのぎのことで精一杯で
問題の奥深いところに思いはいたっていなかったのですが
安易にちょいと玉にたよってみた、ぐらいのことでは状況の根本的な変化までに至らず。。。
その場の親子の焦る気持ちがなんとなく解消しただけで、事態は相変わらず。。
たとえその玉が正しかったとしてもそれとちゃんと共鳴できるだけのものがなければそれまで
事態に良くも悪くもなれっこになってしまった今はちょっと違った心境で
その存在もすっかりわすれて「つん読」状態のこの本から
あらたに新鮮な気持ちで学べることがうんとあるようです。
両目がつぶれても「見る」ことができる例
一方、完璧に機能する眼を持ちながら見ることができない人たち
子どものころ視力を失ったり、生まれつきの盲人が視力を回復するとき、
見ようとすると患者の生命は桁違いの心理学的危機に直面するという話
多重人格者の例から人格が変わると病理が消えたり、生理状態がすっとかわること
わたしも近視なのですが
近視の人は
「あれ(外のもの)は私に対立している。内側に縮んで自分以外のすべてのものとの間に緩衝地帯や安全地帯をつくらないとダメだ」と思い
遠視の人は
「私の方が外界に対立しているのだ。もし、一マイル先に人が見えれば、その人が近づいてくる前に私は対策を講じることができるだろう。」と
自己防衛のために場を自分から遠ざけて外に押し出している
という
ストレスに対する逃避と闘争という二つの選択だという
視力が落ち始めた頃、たしかに娘の人格には大きな変化がありました
彼女なりに一生懸命「適応」しようとしたのでしょう。。。
より学校生活に順応し、いやがっていた学校生活を積極的に楽しむようになり
親としてはある意味扱いやすくなったとすら思えました。
健気といえば健気な、、それで精一杯だったのでしょう
眼鏡をかけるかかけないか
その心の問題を思うとき、
なんとか視力を正常化しようと娘に生活習慣をとやかく言いがちな
私自身が彼女のストレスになりえるだろうし
ろばを水場につれていくことはできても、
本人が心から望まない限り、無理矢理水を飲ませることはできない
あっちこっち頭をぶつけながらもがきながら
彼女が自分の人生を歩むことを応援することしかできない
眼鏡かけても、かけなくても
どっちでもいいよ 好きにしなさい
欲しければ作ってあげるし
嫌なら、お医者さまはあんたに代わってかわしてあげる
今のわたしにできるのはそれぐらいかな、、と思う 無力
それに、娘のことより自分の視力→心の問題だわね
私自身がより大きな視野で愛情を彼女に注ぐことができたら
それも事態を変えるかもしれないしね。きっと。
そうそう、話は全然かわるけど
明太子が前おすすめしてくれた「匂いの帝王」読み始めました。
まだまだ読み始めたところ、、てなかんじだけど
なんで明太子が「衝撃」を受けたか、わかった気がします
出産以来全く手放した「香水」の世界の甘美な魅力にもあらためてちょっぴり酔いしれ
本当に知らない世界の大きいこと
上記の「視力」の話にもつながる「嗅覚」の話
そして、この世の中がより、まっとうに幸せに向かっていきますように、、
なんとなく、そんな風に思わされました。