ポチです。
(長くてごめんなさい。興味ない人はとばしてね。)
昨日、経済的な不安からここのところ検索して、
「これならぎりぎり条件大丈夫かな」と思われたアルバイト先に面接に行ってきました。
行っては来たモノの、詳しい就業条件をきいているうちに、いまのままの条件では就業時間の最低基準も満たせないことがわかり、「いろいろと家人と相談して出直してきます」と履歴書も戻して頂いて帰ってきました。そこで働こうと思ったら、ちょっとずつでも幼稚園の延長保育や近所の家庭保育室を常時ではないにしろ使わないと無理だったので独断では何もいえなかったのです。
働いて、お金をいただくこと。。みんなが当たり前にやっていることを改めて考えさせられました。
わたしは母がずっと専業主婦の家庭で育ったので、ときどき聴く「自分は子どもの頃母親が働いていて寂しかった」という経験が実感としてわからないところがあります。高校生ぐらいの時、学校から帰宅して、なにやらイライラしている自分に気づいて、「あ、もしかして、今日は帰ってきて母親がいないから私いらついてる?」って思った記憶がおぼろげにあるくらいで、母親が家にいてくれてありがたいと思ったことも正直あまり感じたことがありませんでした。そして「半ば強制的に専業主婦にならされて、この年になって今更働きたくない」という母に内心がっかりした記憶もありました。
そしてもちろん反対に、「私は働いてきた母をすごく誇りに思っていて、わたしも絶対ずっと働くんだ♪」ってすごく素敵な先輩の話もきいたことがあります。「親にしてもらえないからこそ自分はここまでできるようになった」という話しもあるし、昨年までキャンプに参加する中でお母さんが頑張って働いて子どもがしっかり育つという、それまでいた専業主婦だけの世界では実際には見ることができなかった実例をみて、「子育て」「子育て」って子どもが小さいうちは可能ならばそれに専念するのが当たり前でしょうという(脅迫感すらある)世界の狭さを、一種のカルチャーショックを伴いつつ目の当たりにしたものの、自分の立ち位置をすぐに変えることも出来ず、未だによく分からず消化不良でいます。
結局はわたしもなにがしか「そうせざるを得ない」というところで自分の立ち位置を模索していくより他ないと思うのですが。それが自分の人生を生きるということなのでしょうが。。。
上の子と下の子が6つ違い。半分は一人っ子を二人育てるような感じで、小さい妹がいたから当たり前のように上の子のためにも家に居た私は、長女の同級生のほとんどのお母さんが働いています。
今は気が付けば、下の子の幼稚園のママも働いている人のほうが多いくらいです。
インフルエンザで学級閉鎖が決定、あるいは物騒にも「刃物を持った人が出没したため、一体一斉下校です」等、昼間の緊急下校の連絡網が先生から直接回ってきたのは連絡網ほとんど最後のわが家にあって「家にお母さんがいてつながったのは○○さんのお宅が実は初めてで、、」と先生の話でした。
親のいない家に遊びに行かせるのはまずいでしょう、ということもあって、娘が友達を約束してくると
遊び場はたいていわが家でした。これにはインドア派の我が子の性格もあるのでしょうが、どこまでホントかほとんど相手の子が「○○のうちがいい」ということで遊び場わが家ご指定でおいでいただいていたこともあるようでした。お友達が遊びに来てくれるのは、娘の学校の様子もよくわかることから有り難い反面、別段おもてなしはしてないものの、なかなか正直少々煩わしい気持ちも全くないわけでなく、ときに「いつもウチなのよね。。。。」とどこか不公平感を思ってしまうこともありました。家に遊びに来る子は幼いうちほど「家に一人で居るのが嫌なの」と率直にいい、それを聴くと「また来てね」とやはり口をついてでるものの、何か複雑でもありました。そういった遊びに来てくれていた子の中から結構な期間にわたる不登校がでたりすると、また働きに出る事への不安が湧いてきたりもします。
何のために働くのかというところなのかもしれません。その子ども一人一人の持って生まれた運命とか性向にもよるのでしょう。トータルのバランス、調和ということかもしれませんし、何が幸福で何が不幸か、短期的な視点で分断しても最後までわからないものですから、自分のできることをしてあとは天に任せるより他ないのかもしれません。
いつかの新聞に「子育てを理由に退職というのはいかに経済的に損か」という記事があったりして、また数字やお金だけで計れないものを短絡的に、、、と思ったりする一方
いままで有り難くも子どもの側にいることができて、好きなだけ抱いて、一緒に時間をすごしてきてそれを宝の時と感謝しつつも、それはだれでも自分の過去はよかったと思うであろう、単なる自己満足なのかもしれないという思いもあります。働いて、お金をいただくというのは、どんな仕事でも大変なことですよね。どんなことでも単純に経済的にプラスだからプラスとはいえない、マイナス面もあろう中、いろいろプラスマイナスある中、その収支バランスの重心をどこにおいたらよいものか、分からなくなっています。
とにかく手がかかった幼い時期をすぎ、気が付けばかつてより細切れながら時間の余裕ができた中、それまでまるで考えてこなかったといえる経済的な側面を前に、焦りがあります。そして、ぐらぐら軒持ちから、勉強にもなかなかむかえぬ自分がいます。自分が何から逃げているのか、何を見据えていかねばならないのか、考えてみるきっかけに、自分にプレッシャーを与えられるかと、書いてみました。
もっと一瞬一瞬を大切に生きたいものです。
人に必要とされる人になる、というのは、、本当にシンプルで大切なことですが簡単なことではありませんね。
(長くてごめんなさい。興味ない人はとばしてね。)
昨日、経済的な不安からここのところ検索して、
「これならぎりぎり条件大丈夫かな」と思われたアルバイト先に面接に行ってきました。
行っては来たモノの、詳しい就業条件をきいているうちに、いまのままの条件では就業時間の最低基準も満たせないことがわかり、「いろいろと家人と相談して出直してきます」と履歴書も戻して頂いて帰ってきました。そこで働こうと思ったら、ちょっとずつでも幼稚園の延長保育や近所の家庭保育室を常時ではないにしろ使わないと無理だったので独断では何もいえなかったのです。
働いて、お金をいただくこと。。みんなが当たり前にやっていることを改めて考えさせられました。
わたしは母がずっと専業主婦の家庭で育ったので、ときどき聴く「自分は子どもの頃母親が働いていて寂しかった」という経験が実感としてわからないところがあります。高校生ぐらいの時、学校から帰宅して、なにやらイライラしている自分に気づいて、「あ、もしかして、今日は帰ってきて母親がいないから私いらついてる?」って思った記憶がおぼろげにあるくらいで、母親が家にいてくれてありがたいと思ったことも正直あまり感じたことがありませんでした。そして「半ば強制的に専業主婦にならされて、この年になって今更働きたくない」という母に内心がっかりした記憶もありました。
そしてもちろん反対に、「私は働いてきた母をすごく誇りに思っていて、わたしも絶対ずっと働くんだ♪」ってすごく素敵な先輩の話もきいたことがあります。「親にしてもらえないからこそ自分はここまでできるようになった」という話しもあるし、昨年までキャンプに参加する中でお母さんが頑張って働いて子どもがしっかり育つという、それまでいた専業主婦だけの世界では実際には見ることができなかった実例をみて、「子育て」「子育て」って子どもが小さいうちは可能ならばそれに専念するのが当たり前でしょうという(脅迫感すらある)世界の狭さを、一種のカルチャーショックを伴いつつ目の当たりにしたものの、自分の立ち位置をすぐに変えることも出来ず、未だによく分からず消化不良でいます。
結局はわたしもなにがしか「そうせざるを得ない」というところで自分の立ち位置を模索していくより他ないと思うのですが。それが自分の人生を生きるということなのでしょうが。。。
上の子と下の子が6つ違い。半分は一人っ子を二人育てるような感じで、小さい妹がいたから当たり前のように上の子のためにも家に居た私は、長女の同級生のほとんどのお母さんが働いています。
今は気が付けば、下の子の幼稚園のママも働いている人のほうが多いくらいです。
インフルエンザで学級閉鎖が決定、あるいは物騒にも「刃物を持った人が出没したため、一体一斉下校です」等、昼間の緊急下校の連絡網が先生から直接回ってきたのは連絡網ほとんど最後のわが家にあって「家にお母さんがいてつながったのは○○さんのお宅が実は初めてで、、」と先生の話でした。
親のいない家に遊びに行かせるのはまずいでしょう、ということもあって、娘が友達を約束してくると
遊び場はたいていわが家でした。これにはインドア派の我が子の性格もあるのでしょうが、どこまでホントかほとんど相手の子が「○○のうちがいい」ということで遊び場わが家ご指定でおいでいただいていたこともあるようでした。お友達が遊びに来てくれるのは、娘の学校の様子もよくわかることから有り難い反面、別段おもてなしはしてないものの、なかなか正直少々煩わしい気持ちも全くないわけでなく、ときに「いつもウチなのよね。。。。」とどこか不公平感を思ってしまうこともありました。家に遊びに来る子は幼いうちほど「家に一人で居るのが嫌なの」と率直にいい、それを聴くと「また来てね」とやはり口をついてでるものの、何か複雑でもありました。そういった遊びに来てくれていた子の中から結構な期間にわたる不登校がでたりすると、また働きに出る事への不安が湧いてきたりもします。
何のために働くのかというところなのかもしれません。その子ども一人一人の持って生まれた運命とか性向にもよるのでしょう。トータルのバランス、調和ということかもしれませんし、何が幸福で何が不幸か、短期的な視点で分断しても最後までわからないものですから、自分のできることをしてあとは天に任せるより他ないのかもしれません。
いつかの新聞に「子育てを理由に退職というのはいかに経済的に損か」という記事があったりして、また数字やお金だけで計れないものを短絡的に、、、と思ったりする一方
いままで有り難くも子どもの側にいることができて、好きなだけ抱いて、一緒に時間をすごしてきてそれを宝の時と感謝しつつも、それはだれでも自分の過去はよかったと思うであろう、単なる自己満足なのかもしれないという思いもあります。働いて、お金をいただくというのは、どんな仕事でも大変なことですよね。どんなことでも単純に経済的にプラスだからプラスとはいえない、マイナス面もあろう中、いろいろプラスマイナスある中、その収支バランスの重心をどこにおいたらよいものか、分からなくなっています。
とにかく手がかかった幼い時期をすぎ、気が付けばかつてより細切れながら時間の余裕ができた中、それまでまるで考えてこなかったといえる経済的な側面を前に、焦りがあります。そして、ぐらぐら軒持ちから、勉強にもなかなかむかえぬ自分がいます。自分が何から逃げているのか、何を見据えていかねばならないのか、考えてみるきっかけに、自分にプレッシャーを与えられるかと、書いてみました。
もっと一瞬一瞬を大切に生きたいものです。
人に必要とされる人になる、というのは、、本当にシンプルで大切なことですが簡単なことではありませんね。